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ウディ・ガスリーと「怒りの葡萄」

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ウディ・ガスリーは、大恐慌時代の中で自らも「ホーボー」としてアメリカを放浪しながら、不況や凶作など過酷な社会情勢に翻弄される農民や労働者とともに生き、その苦悩や喜びや悲しみを1本のギターにのせて歌ったアメリカの吟遊詩人のような人です。(初期の)ボブ・ディランの師匠のような存在だった人といえばわかりやすいかもしれません。僕自身は、ウディ・ガスリーは、「全てのギターを抱えて歌を歌う人」の始祖のような存在だとすら思っています。

今年はウディ・ガスリーの生誕100周年で、特設サイトを見てみると、アメリカでは7月のウディの誕生日を中心に大小のさまざまなイベントがあるようです。他にもスミソニアン・フォークウェイズから3枚組の大きなボックスセットが出ましたし、日本盤でも、大恐慌時代にオクラホマの砂嵐(ダスト・ボウル)から逃れて「夢の」カリフォルニアに向かう農民たちの姿を歌った曲を集め、1940年に発表された「Dust Bowl Ballads」というアルバムが再発されました。(たったそれだけ?というのも寂しいのですが。)

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ダスト・ボウルとは、30年代に断続的にアメリカ中部のグレートプレーンズと呼ばれる地域を中心におこった大砂嵐のことで、ウディが「Dust Bowl Ballads」の中で歌っているように、特に1935年4月14日におこった砂嵐は凄まじく、空を真っ黒に覆い尽くし、町や畑を砂塵で覆ってしまったといいます。また空中高く巻き上げられた砂塵は東へ運ばれ、遠くシカゴやニューヨークでも降り注いだと言われています。

1935年4月14日  最もひどい砂嵐が襲ってきて町をすっかり覆ってしまった
その嵐がやってくるのがちゃんと見えた
雲が気味悪くまっくろで  この強力な国を駆け抜けて悲惨な爪痕を残していった
オクラホマ・シティからアリゾナのところまで
ダコタとネブラスカからゆったりとしたりオ・グランデまで
この市をも駆け抜けた  黒いカーテンが広がるように
これが最後の審判の日だ  俺たちはみんなそう思った
                       (ウディ・ガスリー「恐るべき砂嵐」より抜粋)

書いておかなければならないこととしては、このダスト・ボウルは多分に人災的な性格を持つ、ということです。無計画で過剰な開墾と深い鋤き込みによってあらわになった土壌が旱魃によって乾燥し、強風によって吹き上げられたものとされています。また、農具などの購入の為に過剰に銀行から貸し付けをされた農民たちが借金を払えなくなり、土地を捨ててしまったことにも一因があるという話を聞いたことがあります。(とすると、ダスト・ボウルは大恐慌とも相関関係にある、とも言えるのかもしれません。)
そんなダスト・ボウルに加えて、不況や大資本家による土地の搾取によって今まで住んでいた土地を追われた多くの農民たちは、温暖で果実がたわわに実り、仕事がふんだんにあるという噂だけをたよりに「夢の」カリフォルニアを目指して、おんぼろトラックに着の身着のままの家族全員と家財道具を満載して、競うように長い放浪の旅にでていったといいます。

「Dust Bowl Ballads」は、自身もオクラホマの出身であるウディの体験や取材から生まれたものに違いないですが、同時に、スタインベックの小説「怒りの葡萄」(1939年)の大きな影響のもとに生まれたものでもあるようです。なぜならば、「Dust Bowl Ballads」中の曲に「トム・ジョードの歌」という、まさに「怒りの葡萄」の主人公のことを歌った曲があるからです。また「自警団員」という曲の中にも登場人物の一人である説教師ケーシーの名がでてきます。「Dust Bowl Ballads」は自分自身の人生と「怒りの葡萄」の世界観とを重ね合わせて作ったアルバムなのですね。

スタインベックの「怒りの葡萄」は有名な小説ですが、僕自身はこれまで読んだことはなく、また(同様に有名な)ジョン・フォード監督による同名の映画(1940年)も見たことはありませんでした。「Dust Bowl Ballads」の世界をより深く理解したくて今回初めて読んでみましたが、一言で言えば、凄い小説でした。
上で書いたような、農民たちが土地を追われて流浪せざるを得ないような状況、そしてようやくたどり着いた「楽園」であるはずのカリフォルニアに待ち受けていた移住民を巡る過酷な現実。農民たちは「オーキー」と蔑称されてスラム(「フーヴァーヴィル」と呼ばれた)に追いやられ、資本家に搾取され、労働力を買い叩かれ、権力によって虫けらのように扱われます。そんな中にあって、登場人物たちは人間としての誇りを失わず、独自の倫理観を持って何とか生き抜いていこうとします。
事実をもとにしたその小説世界の造形力の力強さに加えて、その人間観察の深さと細やかさ、そして何より小説全体がはらんでいるその普遍的な意味(メッセージ)に圧倒されました。個人的には、学生時代に読んだガルシア=マルケスの「百年の孤独」以来の感動、といえるほどです。(ただ、僕が読んだ新潮文庫版は訳が古くさくて少々読みにくいのが難点です。)

ウディ・ガスリーの生誕100周年がきっかけで、1930年代にアメリカで起こったダスト・ボウルとその周辺の出来事に改めて興味を持つようになった訳なのですが、そうしたことを見聞きすればするほど、なにやらそんなに遠い昔の、別の世界の話とは思えなくなってきたのです。
昨今のサブプライムローンに端を発する大不況は、当然透けて見えてきます。また、放射能という「見えないダスト・ボウル」と、そのために生まれ育った土地を離れざるを得なくなった人々を巡る状況も透けて見えてきます。そしてどこであろうと政府は昔も今も大企業の論理でしか動きません。

「怒りの葡萄」や「Dust Bowl Ballads」は今もアクチュアルな問題提起をし続けていることを改めて思い知らされるとともに、新しい「怒りの葡萄」が書かれ、新しい「Dust Bowl Ballads」が歌われなくてはならないのだ、と思うのです。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2012-08-29 14:37 | 音楽  

ちりとてちん と 崇徳院

NHK大河ドラマ「平清盛」と同じ脚本家作で朝ドラの名作「ちりとてちん」の総集編を、先日NHKBSで放送していたので観ました。

「ちりとてちん」は、貫地谷しほり演じる福井県小浜育ちの少女が大阪に出てきて落語家を目指す、泣き笑いのストーリーです。解散に追いやられた落語家一門の徒然亭が師匠のもとに再び集結する時、弟子たちが「せをはやみ~」と大きな声で落語の練習をするのですが、それを聞いていて、はっとしました。落語の中に出てくるその歌は、保元の乱で平清盛に破れ、讃岐に島流しにされた崇徳院が詠んだものだったのです。

 瀬をはやみ 
 岩にせかるる 
 滝川の 
 われても末に 
 あはむとぞ思ふ

「岩で二手に分かれている川の流れがまた合流するように、今別れ別れになっているあなたともまたいつか逢いたいと思う」という内容が、師匠と落語を愛する弟子たちの心情に重ね合わせるように使われていたのでした。そしてその落語の題名は、まさしく「崇徳院」だったのですね。

「平清盛」の第30回 ”平家納経” では、厳島神社に平家納経を奉納するために瀬戸内海を航行する清盛の一行と、鬼のような生き霊と化した崇徳上皇の血染めの呪詛が対決するという、これまた視聴率を無視するかのような、ものすごい演出でした。

崇徳院の怨念(?)によって「平清盛」と「ちりとてちん」が結びつけられていたのには驚きましたが、戦いに敗れたり、島流しにあったり、左遷されたりした不遇な魂たちが、この国の文化の重要な一翼を担っていると言えるのです。(n.m.)
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by matsuo-art | 2012-08-27 22:43 | TV  

NHKBS1スペシャル「dear hiroshima(ディア・ヒロシマ)」

NHKで放映したドキュメンタリー映画「dear hiroshima(ディア・ヒロシマ)」を見ました(BS1スペシャル8/17放送)。

広島で被爆し亡くなった人々の遺品を撮影し続けている写真家の石内都さん。その展覧会がカナダのバンクーバーで開かれ反響を呼びました。「dear hiroshima」は、展覧会開催の準備から観客の反応にいたるまで、1年以上にわたり静かに追い続けたドキュメンタリーです。監督は、日本で育ったアメリカ人女性リンダ・ホーグランドさん。
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被爆したときに身に付けていた衣類、靴、眼鏡。それらのあるものはぼろぼろに痛んでいたり、壊れていたり、靴ひもがなかったり、血痕らしきものが残っていたりもするのですが、どれも大変美しく撮られています。ある場合は裏側からの透過光に照らされて、ある場合は自然の光の中で、ある場合はクローズアップによってディテールを際立たせて。
これらの写真は、色や構図、布地などの質感がとても美しいのです。しかし、その背景には取り返しのつかない事態があるが故に、その美しさは尋常ならざる複雑なものとなっています。

「広島」を美しく撮って良いのか?という批判は石内さんの写真作品に対して多く寄せられるようで、ドキュメンタリーの中でも美術史を学ぶ学生から、カラーを使って悲劇を美化してしまうことに対する疑念を投げかけられていました。それに対して石内さんは次のような趣旨で答えます。
「現実に遺品たちは色を持っている。だから自然に、カラーで撮ろうと思った。よく「美しすぎる」とか言われるけれど、別に美化するとかではなくて、現実にそれらの遺品は美しいのです。色もきれいだし、模様も美しい。
私は自分なりの美意識でプリントしますが、実はこれらは被爆する前はもっと美しかった。広島の写真はそれまで多くが白黒で記録されていて、白黒のイメージです。広島平和記念資料館に行くと、遺品が色を持っていて美しい、というのは発見だったのです。」
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実際、遺品の服は、目が覚めるような青一色だったり、今の我々が着ていてもおかしくないようなおしゃれな柄だったりする。戦時中の日本人は当然地味な服を着ていたわけだが、実は着物を綿入れにして防空頭巾にしたり、モンペの下にかつて身につけていたおしゃれな服を着ていたりしていた、という。遺品のおしゃれな服や、丁寧に継ぎ当てをした部分を見ていると、悲惨な広島の被爆の向こう側にあった当時の人々の生活と生きた証しが見えてくる。そのようにしてこれらの作品は、遺品の持ち主一人一人へ観る者の想いを導いていく。

展覧会に訪れた様々な国籍の人に一番好きな作品を選んでもらってインタビューした内容も興味深く、このドキュメンタリーは多くの人に見てもらいたいと思いました。(n.m.)
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by matsuo-art | 2012-08-22 22:08 | TV  

「カミーユ・ピサロと印象派展」 兵庫県立美術館 

兵庫県立美術館 カミーユ・ピサロと印象派展へ行ってきました。

ピサロという作家は印象派やポスト印象派の有名どころ(モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ)と比べると地味な存在ですが、私はピサロの作品が結構好きです。

最初にピサロ的なものを好きになったのは、高校生の時に観た安井曾太郎の最初期の油彩です。安井はフランス修行時代にピサロに影響された風景画を描いています。色合いは古典絵画のように暗いのですが(当時の色そのままなのか、保存の過程でそうなったのか分かりませんが)、それらの作品が持つ質感と誠実さが好きでした。

改めてピサロが好きだな、と思ったのは、2008年に鹿児島市立美術館で同美術館所蔵の作品「ポントワールのレザールの丘」(1882年)を観た時です。肉感的な細かい筆致の集積で描いたこの風景画は、ピサロらしい良い風景画だと思いました。
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ピサロの色合いは他の印象派やポスト印象派ほど鮮やかなトーンではなく、グレーイッシュでくぐもっていますが、そのことがかえって作品に、絵の具の物質性と触感性を与えています。「ポントワールのレザールの丘」ではその触感的なタッチが、近景や遠景のみならず、雲におおわれた空にまで同質にほどこされています。集中力ある密度で全体にタッチが施されていることで、田園の牧歌的風景が何か別ものに見えて来る、それが私が感じるこの作品の魅力です。

今回この「ポントワールのレザールの丘」も出品されていて、再びじっくり観る事ができました。ただ、この作品に匹敵する私が思う”ピサロらしい”作品は、この展覧会の中では、「エヌリー街道の眺め」(1879年)と一時ゴーギャンが所有していたという「オニーのラヴィニエールの小道」の2点くらいしかありません。

ピサロはセザンヌといっしょに野外制作をしていた時期がありますが、ピサロが”ピサロらしい”作品を描いていたのはセザンヌと制作をともにしていた時期と重なると思います。ピサロはその後点描派の影響を受けたり都会の風景をモチーフにしたようですが、それらから”ピサロらしい”感触を受ける事はできませんでした。
私はいままで9歳ほど年上で皆に親しまれる性格のピサロが、気難しい性格のセザンヌを励まし、彼に影響を与えていた、と思っていました。でもこの展覧会を観て、その影響関係は単純に一方的なものではなく、(本人も語るように)ピサロもセザンヌから影響を受けていたのだな、と感じました。(n.m.)
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by matsuo-art | 2012-08-10 22:17 | 展覧会