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ピアノ夜話 その6/ポール・ブレイ「ソロ・イン・モントゼー」

前回の続きから。
モンクの音楽は、そのユニークさゆえに継承者を生みにくいように見えます。ユニークな個性によって支えられたものは一代芸として終わってしまう、ということはよくあることです。しかし、意外なことにモンクの音楽の核心部分は現代に至るまでしっかり生き続けていて、そこここでその顔をひょっこりと出しているのを目にするかのように思えます。
例えば、一般的にどう考えられているか知りませんが、「フリージャズ」の創始者オーネット・コールマンの音楽は、モンクのコンセプトを拡張したところにあるように僕には思えますし、現在のジャズシーンに於ける人気ギターリスト、ビル・フリゼールやジョン・スコフィールドのプレイスタイルにはモンクのピアノ演奏と同じような質を感じます。そして、現代のジャズシーンに於ける「巨匠」ピアニストの一人であるポール・ブレイの最近の録音「ソロ・イン・モントゼー」にも、僕はモンクの匂いを濃厚に感じています。

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正直なところ、僕はポール・ブレイについて良く知っているとは言えません。今まで4枚しかアルバムを聴いたことがないし、そのうちの2枚はもう持っていません。この「ソロ・イン・モントゼー」も、新譜で出たのは知っていたものの、全く買うつもりがなかったのです。たまたま行きつけの中古CDショップに安く出ていたのを見つけたので、ちょっと聴いてみるか、という位の理由で買ってみただけでした。

1回目、聴いてみた第一印象は、「なんとまぁけったいな、へんてこりんなピアノだ」、というものでした。聴いていると、胸の辺りがモヤモヤする、変な感じが残るのです。この感じを言葉で表現するのは容易ではないのですが、あえて言えば、酔っぱらい感覚、とでも言いましょうか。何か、「揺らぎ」の感覚に満ちていて、聴いているとクラクラになってきそうな感じなのです。

まず、全編に渡ってゆったりとしたテンポで弾かれはするのですが、そのテンポは一定ではなく、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、というおよそ酔っぱらいの千鳥足を彷彿とさせるような感じですし、曲も何かはっきりとしたメロディーラインがあるわけではないものの、さりとて全く無意味に弾いているわけでもないようです。つまり、起承転結のあるメロディー展開ではなく、あるテーマの核となるようなメロディーを自由気ままにインプロウ゛ァイズしている感じで、しばしばそこからさらに逸脱していきます。もとの調から逸脱して全然関係ない音がいきなり現れ、そこを起点にしてさらにインプロウ゛ィゼーションが続いているのです。また、ある調でのインプロウ゛ィゼーションと同時に、別の調で「ダニーボーイ」みたいな別のメロディーが唐突に重なって来たりもします。

もっと微細に聴いていくと、そのような企ては細部でも徹底化されていて、ある和音を弾く時に不協和に響く音を混ぜ込んでみたり、メロディーラインに合わせてその音と不協和に響くような調で同一メロディーを同時進行させたり、右手のメロディーと左手の伴奏でやはり不協和な関係をつくってみたり、あるメロディーラインの最後の一音でわざと解決しないような音を選んでみたり・・・、とにかく聴き手に、それぞれの曲に対するくっきりとした像を描かせないような意図が強く感じられるのです。韜晦趣味、多孔質、リゾーム、イソギンチャクみたいな音楽、そんな言葉も浮かんでくるようです。

このように書くと、さぞかし音の濁った、汚い響きの音楽ではないか?、そして、全てが混乱した散漫な音楽ではないか?と思うかも知れませんが、そのようのことはないのです。むしろ、ピアノにベーゼンドルファー・インペリアルを使い、ECMレーベルの熟練エンジニアが録った音は美しいし、演奏自体も、あれほど不協和音を使いながら、(考えてみればそれはそれですごいことだと思いますが)全体の印象は濁ったものではないのです。そしてこれ以上「外して」演奏すると、まさに全てが崩壊してただただ混乱してしまう、そのギリギリのところで曲を成立させているのです。
ただ、そうした美点が見えて来たのは後述のようにもう少し時間が経ってからで、初めて聴いたときの印象は、全てが揺らいで、つかみ所がない音楽だ、というものだったのでした。

1回目に聴いた印象がお世辞にもご機嫌なものではなかったので、このCDはしばらく放置されていたのですが、ある時、何かのきっかけで再度聴いてみたのでした。その時、これは現代版のセロニアス・モンクではないか?という考えが、ふと浮かんできました。そういう気持ちで聴き直してみると、前回、僕がモンクのピアノ演奏を考察した時に挙げた要素が全部入っているように思えました。ただ、「ソロ・イン・モントゼー」は、モンク的な要素をさらに過激に発展させているように思えます。モンクがまるで無邪気に音と戯れるようにピアノを叩いているとしたら、ポール・ブレイはかなり確信犯的かつ執拗に音を操作しているように感じます。例えて言えば、モンクのピアノがミロやクレーだとしたら、ポール・ブレイのピアノはいろんな画像のレイヤーをたくさん重ねまくったコンピューター・グラフィックのように、それぞれの図像がもはや判別しにくいまでにモヤモヤになっているような感じでしょうか。

もちろんこれはポール・ブレイの音楽であり、僕が形式的にモンクとの類似点を感じ取ったとしても、それはピアニストが現代の音楽としての可能性を探究していく中で、たまたまそのように表現してしまっただけなのかもしれません。ただ、僕がそのように彼の演奏を聴くための補助線を見つけたことによって、より深く彼の音楽に耳を傾けてみようと思うようになったのは事実ですし、そして、さらにはモンクとの類似点を考えることで、逆に「ソロ・イン・モントゼー」の演奏の特異性を見つけることもできたのです。

今ではこのアルバムはその不思議さ、つかみ所のなさゆえに、僕にとって決して手放せないものとなってしまいました。
このアルバムを聴くと、今も相変わらず酔っぱらい感覚は感じて、毎回クラクラしはするのですが、その後で他のピアニストの「揺らぎ」がないピアノ演奏を聴くと、(最近はトルド・グスタフセンやマルチン・ワシレフスキといったヨーロッパの若手のジャズピアニストを気に入ってよく聴いていたのですが、)キレイなだけの、何か物足らない演奏のように聴こえるようになってしまうから恐ろしいものです。すっかり耳が変わってしまったみたいです。やはりユニークなものは、現実に対する認識を変革させる力を持つものなのですね。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-04-30 00:43 | 音楽  

ピアノ夜話 その5/セロニアス・モンク「セロニアス・ヒムセルフ」

僕はセロニアス・モンクが大好きです。
彼は全く不思議なピアニスト/作曲家です。この人の音楽をどのように説明したら良いのか、適切な言葉が思い浮かばないのです。ジャズであるのは確かなのでしょうが、なにかそうした枠では理解できないような不可解さを彼の音楽は持っていて、それが彼の音楽の魅力となっています。

セロニアス・モンクは、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー、チャールズ・ミンガスらとともに、モダンジャズ革命である「ビ・バップ」の創始者の一人だと目されています。でも、どう聴いてみても、チャーリー・パーカーらのコード分解による流麗なフレージングと、モンクのたどたどしく時に調子はずれなフレージングはかなり異質なものであると思えてなりません。僕にはモンクのピアノからは、モダンジャズよりも、もっと古いアメリカ南部の教会で弾かれていたゴスペルのピアノや、ダンスホールや酒場でのラグタイムピアノ、ホンキートンク、ニューオーリンズのジャズ、デューク・エリントン、さらにはドビュッシーなどフランスの近代音楽の響きが聴こえてくるようです。実際そうした音楽的要素をミックスしてモンク独特の感性でまとめあげたものが彼の音楽なのではないか、と思います。だから彼の音楽は独特のものでありながらどこか懐かしい感じがあります。

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モンクはグループでの活動も盛んにしましたが、彼の独特のピアノのスタイルを味わうには「セロニアス・ヒムセルフ」や「ソロ・モンク」といったソロピアノでの演奏のCDを聴くのが良いでしょう。特に前者は、そのピアノ演奏におけるモンクの個性が濃厚に表れています。
「セロニアス・ヒムセルフ」では、彼の自作曲とスタンダードナンバーを演奏しているのですが、とにかく一音一音、音を選ぶように弾いていっているのが印象的です。あらかじめ作曲してある部分は最低限のテーマみたいなもので、一回一回の演奏によって新たに曲を再創造していっているという感じなのです。(実際このCDでは、ボーナストラックとして収録曲 'Round Midnight の没テイクがたくさん聴けますが、一つとして同じようには弾こうとはしていないのがそれを物語っています。)

僕が考える、モンクのピアノ演奏の特徴は、1)独特の間(ま)の取り方、2)不協和音の使い方、そして3)テーマの不安定感、この3点にあるように思います。

1)その独特の間の取り方は、メトロノーム的なビートからの自由な精神のあり方を表現しているようです。それは、デカルト的な空間(=時間)感覚を、さながら伸び縮みさせるように機能します。

2)時に調子はずれに聴こえる不協和な音の使用は、調性からの自由、(以前僕はこの不協和な音の使用のことを「異界への扉」と名付けたことがあるのですが、)つまり、ある調性に収まり切らない音をあえてぶつけることでその調性に風穴を開け、別の調性への小さな通路を造ったり、あるいはその調性に「揺らぎ」をもたらす可能性を暗示させているように思えます。

3)また、上記の2点は、前述のテーマの再創造と密接に関わってきます。自由に伸び縮みする「間」と調性に収まらない音の使用は、テーマとなるメロディーの認識を危うくさせます。メロディーがメロディーに聴こえず、崩壊する可能性を孕んでいるわけです。客観的には無意味に感じられるような素早いアルペジオや装飾音の多用もそのことに拍車をかけています。モンクは、音と音をつなぎ止める「引力」であるテーマとなるメロディーに「揺らぎ」を与え、メロディーが崩壊するかしないかというギリギリのところを見極めながら、私たちが慣れ親しんでいる安定した既知の世界の有り様を脱構築し、何かそれが一回ごとに別のものに変質する可能性をもたらすことを画策しているように思えます。

西洋音楽は、バッハがそうであったように規則正しいビートで構築した空間に音をすきまなく並べていくようなものが規範的で、その点ではチャーリー・パーカーらの「ビ・バップ」も同じです。しかし、モンクの音楽はそうしたあり方とは明らかに異質で、僕はいつも彼のピアノを聴くと、雪舟の「破墨山水」みたいな東洋の水墨画における空間のあり方を想像しています。筆致と筆致がある主題をギリギリのところで構築し、また空間を筆致で満たすのではなく、余白を重視し、筆を置くことによって自由に空間を変容させるような絵画。あるいは龍安寺に代表されるような枯山水の石組みのように、石と石の配置の関係の中にある秩序感が見えるか見えないか、そんな空間のあり方がモンクのピアノにはあるように感じています。
でもこのように説明してしまうと、また彼の音楽とは違うような気もします。彼の音楽はあくまでカラフルで楽しげなトーン、子どもの遊びのように無邪気なトーン、あるいは前述のような懐かしいトーンがあって、水墨や石庭のようなモノトーンの渋い世界観ではないのです。むしろミロやクレーの絵の方が近いかも知れません。モンクの音楽もミロやクレー同様、「笑い」に満ち溢れているからです。

モンクの音楽は「すきま」の多い、ぎくしゃくした音楽ですが、それゆえの自由度の高さがあります。またその自由度の高さゆえ、そしてそのユニークさゆえにモンク以外の他の演奏家がさかんに取り上げ、演奏されています。
上記のモンクのピアノに対する考察は僕の独創です。モンクの音楽の不思議さを表現するにはまだまだ舌足らずであるとは思いますが、とにかく僕はこうした方向から彼を理解しようとしているのです。ホントにそうなのか、実際どのように感じるかは、自由な音楽であるモンクの音楽を自由に聴いて、是非、自由に考えてみてください。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-04-29 00:01 | 音楽  

鶴井美和/はらだ有彩「名ごり」

当研究室出身の、はらだ有彩さんから2人展の案内が届きました。26日(火)から始まっています。
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「名ごり」鶴井美和/はらだ有彩 
【期間】2011年 4月26日(火)~5月7日(土)
【定休日】水曜日
【場所】さらさ西陣2階 ギャラリーYUGE
 〒603‐8223 京都市北区紫野東藤ノ森町11-1
 TEL 075-432-5075
【アクセス】
 ●JR京都駅より市バス9系統
 ●地下鉄四条烏丸より市バス12系統
「堀川鞍馬口」下車、西へ徒歩5分
【営業時間】12:00~23:00 (ラストオーダー22:00)

はらださんは京都市立芸術大学でフレスコ画を学び、現在、大阪のデザイン関係の会社で働きながら作品を制作しています。仕事は夜の11時頃までいつも残業と言っていましたが、デザインや建築事務所の仕事はこのように残業の毎日になるのが一般的、そちらの方面をめざす受験生は心しておきましょう。
こちらは、はらださんのブログです。

さらさ西陣」は、築80年の銭湯を喫茶店に改装したアンティークな場所のようで、その2階が会場になっています。1階のカフェはなかなか味わい深い空間のようですね。(n.m.)
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by matsuo-art | 2011-04-28 04:05 | 展覧会  

ピアノ夜話 その4/キース・ジャレット「ケルン・コンサート」

音楽の聴き方がカジュアルなものになってしまって、一枚のレコードを集中して繰り返し何度も聞き返すことが無くなってしまっている、というようなことを前回書きましたが、それでも、その曲を聴く時に居住まいを正し、覚悟を決めて聴かなくては、と思わされるCDはあります。
僕にとって、リヒターによるバッハの「マタイ受難曲」、バーンスタインによるマーラーの「交響曲第9番」、チェリビダッケによるブルックナーの交響曲集、アファナシエフによるベートーヴェンの最後のピアノソナタ集なんかはそうですし、ポピュラー音楽でも、アストル・ピアソラの晩年の傑作「タンゴ・ゼロ・アワー」や「ラ・カモーラ」、マイルス・デイビスの「ビッチェズ・ブリュー」、ジョン・レノンの「ジョンの魂」なども、聞き流すのではなく、きちんとそれを聴くための時間をとって、集中して聴くことを強いられているような気がします。聴き終えた後はそれなりに疲れますが、本物の芸術作品が与えてくれる充実感が残ります。

それとは逆に、単なるBGMとしてではなく、良い意味で部屋の中にいつも流れていてほしい、その音楽が部屋を満たし、それによって気を浄化するかのような音楽があります。音の粒子とともに生きて、感動とともに日々活動したいような音楽です。僕にとってそんな音楽の筆頭がキース・ジャレットのピアノです。

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キース・ジャレットは自身のスタンダーズ・トリオでの演奏や、古くはマイルス・デイビスのグループの一員として活動したジャズ・ピアニストとして有名ですが、実はそれに留まらない幅広い活動をしていました。バッハやショスタコービッチなどのクラシック演奏や、パイプオルガンやクラビコードなどの即興演奏、オーケストラ作品の作曲、そうかとおもえば民族楽器を使ったシャーマニズムみたいなレコードを作ったりなど、表現の振れ幅の大きい天才肌の芸術家と言っていいでしょう。そんな多岐にわたる彼の活動の中核に、ソロピアノによる即興演奏があると思います。

キース・ジャレットのピアノによる即興演奏は、CDでは70年代はじめの「Facing you」から現在まで断片的ながらも継続していますが、その表現内容はその時期によっても違いますし、演奏場所によっても異なったものになってきます。最初期はアメリカ南部の香りを濃厚にたたえた野性味のあるピアノ(「Facing you」)でしたが、中間的な時期(「Solo concerts / Bremen, Lausanne」)を経て、だんだんと叙情性を帯びたものに変化していき(「The Koln concert」「Sun bear concerts」「Bregenz concerts」)、さらには重厚で古典的な感じの響きの演奏へと変化していきました(「Paris concert」「Vienna concert」)。現在は、キース自身が今まで取り組んで昇華して来たのだろう全ての音楽的要素(バロック、フランス印象派、ブルース、ジャズ、ニューエイジ、フォーク、現代音楽・・・などなど)が整然と並べられ、さながら響きのショーケースといっていいような演奏となっています(「Radiance」「Carnegie hall concert 」「Paris / London」)。

僕がキース・ジャレットの音楽を聴き始めたのは、80年代の終わり頃、CDプレイヤーを買って間もない頃です。「ケルン・コンサート」や「生と死の幻想」などもこの頃に聴いています。しかしその後、僕の中でジョン・コルトレーンやオーネット・コールマン、アルバート・アイラーなどフリージャズのマイブームがあって、その時にキースの即興演奏は非常になまぬるいものに感じられ、しばらくしてCDを手放してしまったのです。その後、キースは次々と話題作を発表し、巨匠へと上り詰めていくようでしたが、僕は敬して遠ざけるという態度でした。

1998年に僕に子どもが誕生しました。半日近くに渡る出産の現場に立ち会い、赤ちゃんが誕生する瞬間をこの目で見て、ベッドの上で眠る我が子と奥さんを助産院の静かな部屋に残し、僕は一人で自宅に帰りました。帰る途中、なぜだか無性にキースの「ケルン・コンサート」が聴きたくなってきたのでした。そして駅前のツタヤのCD売り場で以前手放したこのCDを買い直し、家に帰って聴いたのでした。

この「ケルン・コンサート」は冒頭のフレーズがいい、と思います。最初のピアノの音のいくつかを聴いただけで何か魔法にかかったように、これからしばらくの間生み出され続ける音たちが素晴らしいものであることを確信します。
森林の奥に響き渡るようなゆったりとしたピアノの音から始まり、雨上がりの草原を疾走する鹿の群れ、大空を飛翔する信天翁、眩しい陽光が樹々の葉にぶつかり弾け飛ぶ様・・・そんな、様々な情景を思い起こさせるようなフレーズが現れては消えていきます。さらに、アンコールで弾かれる短い即興が素晴らしいのです。この頃(70年代後半)のキースはジャズのカルテットで演奏している時も含めて、メロディーラインをつくる力が冴え渡っていて、美しいメロディーが自在に変奏されてこれでもかとたたみかけてきます。
そして膨らんだ花のつぼみがゆっくりと開くような、たっぷりとした余韻を残してコンサートがフィナーレを迎える時、子どもの誕生を父親が一人で祝福するための音楽としてこれ以上のものはないと、僕は感じていました。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-04-27 22:13 | 音楽  

ピアノ夜話 その3/番外編「音楽を聴くということ」

最初に買ったCDはグールドの「ゴールドベルク」だったことは前回書きましたが、最初に買ったLPレコードはビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」でした。1976年、中学一年生の時。ビートルズのレコードを買いにレコード屋に行って、たくさん出ているビートルズの中からどれを買おうかさんざん悩んで、結局これにしたのでした。理由はジャケットのデザインが派手でにぎやかで見飽きないものだったから、そして帯に「最高傑作」と書いてあったから。わくわくしながら急いで家に帰って聴いてみると、まずヒット曲のような曲が全くなく、こまごました曲ばかりがメドレーのように並んでいて、がっかりしてしまいました。インド音楽みたいな曲もあるし、なんか変なアルバムだ、とも思いました。でも何回か聴いているうちに、その構成の面白さやカラフルな音のバリエーションの豊かさに魅力を感じて来て、気がつくとズッポリとはまってしまっていました。インド音楽みたいな「Within you without you」やラストの変な曲「A day in the life」なんかもいつしか最高に面白くなって来ました。

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毎日毎日、中学校から飛んで帰って来ては、床の間の上に置いてあったとてもチープな(なんとプラスチック製の)ポータブルレコードプレーヤーにいそいそとレコード盤を置きます。盤の上に針をのせ、ゆっくり回転する溝のうねりを飽きずに見続けながら、左右のスピーカーの間に頭を突っ込むようにしてひたすらビートルズのこのレコードを聴き続けました。全曲聴き終わるとまたA面に戻して最初から聴き続けます。そしてそれも聴き終わるとまたもう一度・・・。こうして毎日毎日同じ一枚のレコードを飽きることなく、まさに擦り切れるほど聴き続けました。どうしてそんな風に夢中になってしまったのでしょうか、理由はわかりません。何か今の自分とは別のどこか遠くにあるすごい世界に対する憧れと、それを全力で無心に吸収しようとしていた時期だったのかも知れません。

後年、旧ユーゴスラヴィア(現スロウ゛ェニア)出身のアーティストの友達ヨーゼ・スラクさんと話していたら、彼も若い頃、そんな風に取り憑かれるように音楽を聴いた時期があったと言っていました。旧ユーゴスラヴィアは社会主義の国だったのでロックは御法度でしたから、スイスの通販会社を通じてジミヘンの「エレクトリック・レディランド」のレコードをなんとか取り寄せ、それを「百万回」聴いていたそうです。そしてラジオ・ルクセンブルグの短波放送から流れてくる雑音まみれのロックを夢中で聴いていたそうです。ラジオに耳をくっつけるように雑音の中から聞こえてくる音楽に耳を傾けているヨーゼ少年を想像して、「ご同輩、あなたもそうだったのか」と妙に感じ入ってしまいました。ただ、社会主義体制の中、ご禁制の音楽をなんとかして聴こうという、別世界の文化に対するその飢え乾き方は僕の場合とは比較にならないほど強烈なものだっただろうとは思いましたが。
そういえば、僕の弟も中学時代のある一時期、高中正義の「虹伝説」を四六時中鳴らして僕を辟易させましたが、音楽が好きになった少年少女は必ず一時期そういう風になるものなのかも知れません。

ただ、今はそういう聴き方をすることはまれになってしまいました。音楽はパソコンをクリックするだけで通販で簡単に手に入るし、コンサートなどに行けば別ですが、アナログレコードのように音が生まれ出る様をリアルに見ることもなく、データ化されたシグナルをブラックボックスが再生してそれをカジュアルに楽しむ、という感じになっています。そうした状況が悪いことだとは思いません。でも、アナログレコードの溝に刻み込まれている全ての音をなんとか聴き漏らさないようにチープなスピーカーに耳をくっつけていた時期が僕の原点であり、それを忘れたくはないなと思います。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-04-26 23:18 | 音楽  

ピアノ夜話 その2/グレン・グールドのJ.S.バッハ「ゴールドベルク変奏曲」

前回のつづきから。
晩年のベートーヴェンは一時期スランプに陥っていたそうです。そのスランプをどのように打開したか、それは偉大なる先人である大バッハの音楽を勉強し直すことでした。その成果は確かに後期作品の中に見られます。例えば前回聴いたピアノソナタ第31番の第3楽章の神秘的なフーガなどに顕著ですし、弦楽四重奏曲第13番には「大フーガ」という破天荒な楽章があります。晩年のモーツァルトもバッハを研究したようです。こうした人たちにとって、バッハは汲めど尽きることのない音楽的な源泉だったのですね。

現在では偉大なる西欧近代音楽の父として神のような扱いのバッハですが、実のところその死後は長きにわたって忘れられた存在であったようです。バッハのような厳格で複雑な形式は堅苦しく古臭いものに思えるようになったのでしょう。市民社会が成熟して、聴衆はより自分たちの身の丈に合ったわかりやすく感情に訴える音楽を求めるようになっていったのです。19世紀になってようやくメンデルスゾーンなどによってバッハが再発見・再評価され、「マタイ受難曲」などが演奏されるようになりました。また、20世紀になってからのカザルスによる「無伴奏チェロ組曲」の発見も有名なところです。
それにしてもバッハは様々な演奏形式での音楽を膨大に書いていて、それだけでも単純にすごいなと思わされますが、その曲の1つ1つが今も古典として輝きを放ち続けているのですから全く恐れ入ります。
でも、その古典に命を吹き込むのは演奏者であり、演奏によってその曲が素晴らしくもつまらなくもなります。
20世紀後半においてバッハ演奏に関して新機軸を開いたのは、有名なところでは声楽作品やオルガン演奏に於けるカール・リヒター、古楽的アプローチに於けるグスタフ・レオンハルト、そしてピアノ演奏におけるグレン・グールドが挙げられるのではないかと思います。

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僕がこのグレン・グールドの弾くバッハの「ゴールドベルク変奏曲」を初めて聴いたのは、多分1985年のことだったと思います。大学3年生。何を隠そう当研究室の塾長M先生が学生時代に住んでいた上桂の下宿でのことでした。ある日、2つ上の先輩のM先生の部屋に遊びにいった時に聴かせてもらったのです。
そのころはまだCDは出始めたかどうかという頃であまり一般的ではなく、かけてもらったのは当然黒い塩ビ製のアナログレコードでした。
冒頭の静かなアリアが終わり、第1変奏が始まるや否や最初の1音で飛び上がらんばかりにびっくりしてしまいました。いきなり強い打鍵でうきうきするような曲調に一気に変わってしまったからです。その後、第2、第3変奏へと切れ目なくリズミカルな演奏が続いていきます。なんだこれは?これがバッハ?なんだかジャズピアノみたいじゃないか?
それまでクラシック音楽と言うと、堅苦しく取っ付きにくい音楽だというイメージでほとんど聴こうとしていなかったのですが、こんな楽しくてかっこいい演奏もあるんだなとその時単純に思いました。

カナダのピアニスト、グレン・グールドは生涯2度このバッハの「ゴールドベルク変奏曲」を録音しています。1回目は1955年のデビュー盤、そして2回目は(その早すぎる)晩年の1981年。それまでのバッハ演奏の常識を大きく覆す革新的な演奏としてセンセーションを巻き起こした1955年のデビュー盤に対して、1981年の新盤はその演奏の新鮮さを損なわずに音楽的に深く円熟した普遍的な演奏です。そしてその翌年、グールドは急逝。まだ50歳でした。そのピアニストとしてのキャリアを象徴する2つの「ゴールドベルク変奏曲」ですが、僕がM先生宅で聴かせてもらったのは81年録音のものです。今ではこの録音はジャンルを問わない鉄板的名盤として、改めて口に出すのもはばかられるくらいに有名なものとなっています。

僕が大学院を修了するころ、CDやCDプレイヤーの値段が少しは安くなって来て、少ないバイト代をやりくりすればなんとか買えるようになって来ました。そんな時、以前聴かせてもらったグールドのバッハが無性に聴きたくなって来たのです。そこで有り金をはたいてCDプレイヤーとこのCD1枚を買いにいきました。1988年のことだったと思います。(このCDは当時3000円くらいしたはず。今は同じタイトルのCDは輸入盤なら1000円しません。)
それ以来この曲を何回聴いたかわかりません。気分のいいときも悪いときも聴いて、絵を描くときものんびりしているときも聴いて、道を歩いているときもバイクに乗っているときも頭の中で鳴らして反芻して、始めのアリアから30もの変奏を経て終わりのアリアまでCDに合わせて口笛で吹けるくらいに覚えてしまいました。こうなったらもう良い演奏だかどうだかは僕にとってどうでも良いことです。もはや友達みたいになってしまったのですから。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-04-25 20:38 | 音楽  

ピアノ夜話 その1/ヴァレリー・アファナシエフのベートーヴェン「最後の3つのソナタ」

昨晩TVで放映された「のだめカンタービレ最終楽章・後編」の中頃で、自室でのだめが弾いてシュトレーゼマンが感動する曲は、ベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタの中の1曲、第31番のピアノソナタでした。

ベートーヴェンが最後に書いた3つのピアノソナタ、第30番・第31番・第32番(それから5つの後期弦楽四重奏曲も)は、それまでのベートーヴェンの音楽とは明らかに違う感じがします。虚飾のようなものがなく、晩年のベートーヴェンの素のままの心境の断片が音として闇の中に煌めいています。そしてそのような断片が最後にはあたかもゆっくりと螺旋を描きながら昇華されて彼岸へと消え去っていくようです。純度の高いすごく透明な音楽。僕はこの最後の3つのピアノソナタを聴くたびに、こんな音楽が聴けて音楽を今まで聴いてきて良かったなと思います。

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僕が初めて第31番のピアノソナタを聴いたのは、'92年頃、グレン・グールドの演奏を収めたレーザーディスクででした。極めて理知的なピアニストだと思っていたグールドが陶酔しながら弾いている姿が印象的でしたが、それ以来僕にとってこの演奏がこの曲の基準になっていました。その後そんなにたくさんではありませんが、それでも10種類くらいはいろいろな演奏者による演奏を聴いたでしょうか。初めて、グールドのLD版の演奏より良いと思える演奏に出会ったのが、2004年頃に発売されたヴァレリー・アファナシエフの日本でのライブを収めたCD「BEETHOVEN The Last 3 Sonatas」(若林工房)です。と言うか、この演奏はこれらの曲の本質そのもの、そして演奏芸術の本質を開示しているようにも思え、今のところ僕にとってはベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタといえばこの演奏以外考えられないほどになっています。

最初から最後まで非常にゆっくりのテンポで弾かれますが、音が生まれ、音が消える、その音の明滅がまるで触れられるかのように感じられます。そしてその音の生成と消滅に立ち会い、それを見守り続けます。
この演奏では特に最後の第32番のピアノソナタが素晴らしいと思います。あえて言葉にすると「幽玄」という言葉がふさわしい。この世のものでありながらどこかこの世とは違う世界からの響きが、また彼岸へと消え去っていきます。

そして全ての演奏が終わり、静寂の中にとりのこされ、その中で僕にはいつも「果たして、今聴いたものは何だったのだろう?」という気持ちが浮かんできます。あれは果たして音楽だったのか?なにかもっと大きなもの。もしかしてあれは「圧縮された人生」というようなものではなかったか。ベートーヴェンのものでありながら同時に私たち自身のものであるかのような・・・。
それを確かめ、もう一度味わうために、僕は何度でもアファナシエフのこの演奏を聴き続けるでしょう。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-04-24 05:36 | 音楽  

元町映画館のゴダール映画祭2011

当研究室から歩いて5分の元町映画館でゴダールの「フォーエバー・モーツアルト」を観てきました。上映後には浅田彰氏(京都造形芸術大学大学院長)と市田良彦氏(神戸大学国際文化学部教授)の対談「シネフィルでない人のためのゴダール入門」もあり、濃密な空間を体験してきました。

お二人のお話は本当に面白くて、映画1本観て、これで1500円は安すぎる。私はたまたま11時に整理券を取りにいけたので12番目に入場できましたが、開演時間前に映画館に行くと大きな人だかり。満員御礼だったようです。
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対談では始めに浅田氏が、パレスチナでの挫折による「ヒア&ゼア」から現在に至るまでのゴダールについて解説。映画とその外側がからんで連動するゴダールの立ち位置を簡潔に解きほぐしながら"抑えがたい速度で疾走していく”氏の語りに感服です。「フォーエバー・モーツアルト」を観ていない!?という市田氏は、最新作の「ソシアリスム」(私も2月に観ました)や「JLG/自画像」のヨーロッパ主義的傾向とナルシシズムを批判的に語りつつも、フランク・ザッパ的な切り貼りマニアとしてのゴダールの魅力に言及。その切り貼りの牙城である自宅を最近売り払ったという80歳を過ぎたゴダールに、新たな期待を寄せて終了しました。

「ハリウッドのオーディオビジュアルな帝国主義に対するヨーロッパ主義」「ホロコーストを語れなかった映画の原罪、それを映画の分身でできた私(ゴダール)の身体が一身に背負う」「映画の中で完結しないゆえに世界と否応なくショートして繋がってしまうゴダール」などいろいろな側面から語られましたが、中でも「スピルバーグ(またはタランティーノ)に嫉妬しているゴダール」という側面が一番腑に落ちて面白かったところです。

安心したのは、最近のゴダールの映画は一度観ただけでは筋も何もわかるようには撮っていないので、浅田氏でも5回は観ないとわからない、とおっしゃっていたこと。1996年公開当時、「フォーエバー・モーツアルト」を蓮實重彦氏と観た時は、ここはこうだったよね、と単純に2人で筋だけの確認をして、もう一回観た、とおっしゃっていました(私自身、ゴダールを好きになったのは80年代に「パッション」を映画館で3回観てからです)。文学、音楽、絵画、歴史などの膨大な引用についても「実はゴダールはヨーロッパの教養と言うほどにはちゃんと読み込んではいない」としてゴダールの感覚的な引用にも触れていたので、「新ドイツ零年」を観てその引用についていけない、とゴダールから離れていた私も、この機会にまたいくつか観てみようかと思いました。

元町映画館のゴダール映画祭は15日(金)まで開催しています。今回の9作品のうち初めてゴダールを体験する人にお薦めなのは、「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「右側に気をつけろ」あたりが(眠くならずに)よいのではないでしょうか。(n.m.)
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by matsuo-art | 2011-04-10 22:03 | 映画  

パウル・クレー おわらないアトリエ/京都国立近代美術館

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今日は、京都国立近代美術館で開催されている「パウル・クレー おわらないアトリエ」展を観に行ってきました。
僕はクレーが大好きなので、久しぶりにクレーの実作をまとまって観れる今回の展覧会を楽しみにしていました。今日はお客さんはそんなに多くなく、小さな額入りの作品が並ぶ会場を比較的ゆっくりと観れてよかったです。

今回のクレー展はちょっと趣向が変わっていて、クレーがアトリエでどのように創作していたのか、その創作活動の一端を見せるような展示工夫をしています。
デッサンを転写したり、作品を切って再構成したり、はたまた描いた1枚の作品を切って2〜3点に分離してしまったり・・・。
材料も、鉛筆だけで書いたもの、水彩、油彩、いろいろな画材の併用、何かその辺にあった包装紙に描いたようなもの、別の作品の裏に描いたものなど・・・。

いわゆる有名作品や大きな油彩は少ないのですが、小さなドローイングや油彩の小品の方が、かえって鑑賞の際に親密感を持って眺められます。ペンで描かれた線のニュアンスや、水彩の透明感、あるいはグイッと力強く引かれた線の大胆さにクレーの息づかいを感じられたりなど、これはこれで適切なセレクションであるように思えましたし、クレーの作品はもともとそういう風に観られたほうがいい、という気もします。

今回の展覧会を見て思ったことは、とにかくいろんなことをやっているなあ、ということと、自由奔放に描いているように見えてやはり色彩の発色や画面構成など大事なことはきちんと押さえながら描いているなあ(まあ、これは当然のことなのではありますが)、ということです。自分の中から滴り落ちてくるようなアイディアの数々を押しとどめることなく、出てくるがままにどんどん描き現していっている、という感じがします。それらの多くは紙に描いたドローイングという非常にシンプルな形式ものであるし、中には唖然とするくらいざっくばらんな出来の作品もあるのですが、そのスカスカの感じがかえって「可能性の中心」を感じさせ、僕なんかそういうものにやたら触発されてしまうのです。

そういう意味では、クレーの作品(特に今回展示されているような作品)は、クレーの絵から何か与えてもらおうという姿勢で観るのではなく、クレーと一緒になって何かイメージを創造しようという気で観るのが良いのかも知れませんね。

岡崎公園の桜は今日のところはまだ4〜5分咲きという感じですが、近いうちに満開の見頃を迎えるでしょう。花とクレーを観に京都に行ってみてはいかがですか?(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-04-05 18:51 | 展覧会