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イエス・フューチャリング・アンダーソン・ラビン・ウェイクマン、アルカイックホール 尼崎

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イエス・フューチャリング・アンダーソン・ラビン・ウェイクマン、 4/21(金)あましんアルカイックホールでのコンサートレポートです。

イエス50年の歴史の中で私がよく聴いていたアルバムは「 こわれもの 」から 「トーマトゥ」までの時期。中学から大学生の頃に特に心酔し、その後はリアルタイムでフォローはしないものの(1992年の8人イエス Union Tour へは行った)、時折思い出したようにその時期の楽曲を聴き込む、というように接してきた。

私が考えるベストメンバーは、vo.ジョン・アンダーソン、g.スティーブ・ハウ、b.クリス・スクワイア、key.リック・ウェイクマン(そしてパトリック・モラーツ)、dr.アラン・ホワイトまたはビル・ブルーフォード、となる。それ以降の時期については大ヒットした「Owner of a Lonely Heart」はさすがに知っているものの、他の曲については、ほとんど知らない。今回ギターを弾くトレバー・ラビンが加入していた時期についてもよく知らない。客観的に見れば片寄ったファンかもしれない。

イエスがジョン抜きで活動し、数年前にこの尼崎のアルカイックホールで演奏したことは知っている。これが最後かも、と少し検討してみたものの、結局行かなかった。ジョンのボーカルがないイエスを想像できなかったからだ。結果として、クリスのゴリゴリのベースとツボを押さえたハモりに生で接する機会を永遠に失っってしまった(行った人からは「良かったよ、替わりのボーカルも健闘してたし」と聞いた。クリスは2015年6月に帰らぬ人となった)。

そのときなぜジョンが参加していなかったのか詳しくは知らないが、病気だとか、声が出ないとかの噂を聞いたので、もう私が考えるイエスの演奏を生で聴くことはかなわないのだ、と思っていた。ところが、アンダーソン・ラビン・ウェイクマン(ARW)としてジョンがリックと共に活動しており来日もする、という情報が寝耳に水で入ってきたのだ。これは行くしかない。

今回の日本公演初日(4/14東京)から遡ること7日前の4月7日、イエスがロックンロールの殿堂に入った。NYでの受賞式では分裂した2つのグループからジョン、リック、ハウ、アランが集った上に、引退したビル・ブルーフォードまで駆けつけていたのには感慨深かった(私はこの情報をキング・クリムゾンのHP、DGMで知った)。そしてその3日後、ARWはイエス・フューチャリング・アンダーソン・ラビン・ウェイクマンと改名し、正式に「イエス」の名を冠しての来日となった。

そんな期待と、しかし一抹の不安を抱えてのこのコンサート、果たしてその音楽はどうだったのか。
結論から先に言うと、本当に素晴らしいコンサートだった!ジョンの声が出るのかどうか心配だったわけだが、しっかりと出ていた。曲のテンポもおじさんバンドにありがちなスロー寄りになっていない。全盛期を彷彿とさせる、まさしくイエスのコンサートだった。
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私の席は1階の前から19列目、向って右側寄り(リック・ウェイクマン側)。開演の7時に開始アナウンスがあったが、メンバー登場までには少し間があった。最初に登場したのはドラムとベースの2人。逆光のシルエットで軽くポーズを決めてスタンバイすると、次にラビンとリック・ウェイクマンが登場。リックは太った熊のような大きな体躯で、向かって右手からゆっくり歩いて入ってきた。顔も丸いが髪は70年代のように長い金髪。例のマントを着けているのがうれしい。

そして最後にジョン・アンダーソンがひらひらと腕を動かし、少しおどけながら登場。会場が盛り上がる。やはりイエスにはこの人が居なければいけない。上半身のボリュームはさすがにしっかりとあったが、タイトなパンツにブーツを履いた下半身は細く、見た目が若々しい。事実、コンサート中は飛び跳ねたり歩き回ったりで年を感じさせず(72歳!)生き生きしている。MCでは、ぞうさんの歌やドングリころころなど日本の歌を口ずさんだり、あなたは美しい、と日本語も口にしながら常におどけていた。

ステージと観客の距離が近いせいか、最初は何やら日本のフォークソング歌手が集ったナツメロコンサートのようで、会場が和気あいあいとしている分、オーラが少ない。それもいいかな、とも思っていたが、ありがたいことにそのレベルで終わる人達ではなかった。
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最初に曲の持つ力を感じさせてくれたのは「And You and I」。”こわれもの”からの定番ソングだ。ただ、中間部分のボーカルパートを別アレンジにしていたので、あれっ?と思った。ジョンの声が出ないせいかな、とか、このパートは高い音域だったっけ、などと考えてしまったものだから曲の後半は若干入りこめなかった(斜め後ろの人の手拍子がやたら大きいのにも閉口した)。

しかし「Heart of the Sunrise」でそれは全くの杞憂と判明。スピード感とメリハリのある力強い演奏にジョンの昔と変わらぬ音域の声が乗る。音圧もしっかりとあるボーカルに感動。曲の最後には、ジョンが健在であることそれ自体に心動かされ涙が滲む。最盛期と変わらぬ演奏に思わずスタンディングオベーション。

ラストから2番目の曲「Awaken」がさらにすごい。アレンジを変えることで冗長さを感じさせず(中盤でジョンは延々とハープを弾いた)、厚みのある音は圧巻。リックのキーボードが荘厳かつ華麗に展開する。全体にキーボードの重低音が効果的に響いていた。

ラストの「Owner of a Lonely Heart」ではリックがキーボードを肩から掛けるタイプに持ち替えて移動。ステージ中央で4人で円陣組んで演奏したかと思うと、なんとステージを降りてきた(ラビンも左手から降りたようだがよく見えなかった)。会場の通路をゆっくり歩いて一周し、私の3メートル先まで近寄ってくれた。リックのサービス精神に感謝。その間も曲は延々と演奏され、クリームやビートルズのメロディを挟んだり、ベースが歌ったりしながら観客総立ちの盛り上がりの中で終了。アンコールの「Roundabout」でもその盛り上がりを引き継いで終了しました。
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本来イエスの音に欠かせないスティーブ・ハウとクリス・スクワイアがいなかった訳だが、その不在を感じさせない演奏だった。ラビンはラビンとして楽曲やソロからハウらしさをなくして演奏、ベースも変にクリスを意識することなく自分らしく演奏していたのだろう、逆にそれが2人の不在を感じさせない演奏になっていたように思う。リズム隊が若い(?)のも功を奏しているだろう。コーラスもラビンとベース、ドラム(私の位置からは歌っているところはよく見えなかったが)の4声と厚みがあった(ただ、後で考えると「And You and I」の新アレンジ部分はコーラスのパートだった。単にシンプルにしたかったのか、クリスやハウがいないことが理由だったのか)。

「Heart of the Sunrise」「Awaken」で全盛期のイエスが目の前にいるかのような演奏を体験できたし、彼らのサービス精神で会場が一体となった雰囲気も味わえた。ラビン加入期の楽曲も乗りの良い曲が多く、初めて聴いても結構楽しめたし、十二分に満足したコンサートだった。(n.m.)

セットリスト 2017/4/21 あましんアルカイックホール
1.Cinema(Yes)
2.Perpetual Change(Yes)
3.Hold On(Yes)
4.I've Seen All Good People(Yes)
5.Drum Solo
6.Lift Me Up(Yes)
7.And You and I(Yes)
8.Rhythm of Love(Yes)
9.Heart of the Sunrise(Yes)
10.Changes(Yes)
11.The Meeting(ABWH)
12.Awaken(Yes)
13.Owner of a Lonely Heart(Yes)
アンコール
14.Roundabout(Yes)
(テープ:Life on Mars?/David Bowie song、Piano solo version by Wakeman)
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by matsuo-art | 2017-04-26 14:56 | 音楽  

King Crimson 2015 キングクリムゾン 日本公演 フェスティバルホール大阪

12年ぶりに来日したキングクリムゾンのコンサートに行ってきました。12月13日(日)の大阪フェスティバルホール公演です。
東京公演4日間、前日の大阪公演に続く2015 JAPAN TOUR 6日目の公演です。
12年ぶり、ということは前回は行かなかったのだなあ、と思っているのですが、私がクリムゾンに感化されたのは高校、大学時代のまさに思春期。ロバート・フリップの虜になって、いくつかのバージョンが発売されたソロアルバム「エクスポージャー」も、レコード、CD合わせて4枚くらい持っているのではないかと思う。
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コアなファンには承知のとおり、クリムゾンの絶頂期は1973~74年のライブ演奏にあります。真骨頂はディストーションのかかったヘビーな音による即興演奏で、その緊張感と発散力の強度は他に類を見ません。80年代に再結成されてからもフォローし続けて日本公演にも3度行きましたが、90年代のヌーブォーメタル期が進むにつれ、その音色やインプロの在り方に不満を持ち、失礼ながら見切らせていただいておりました(74年の演奏を基準にしたら、仕方ないですよね)。

そんな訳でしばらく離れていたのですが、40周年記念BOXシリーズ発売で再び付き合い出したある日、気が付けば2014年から新メンバーですでにアメリカツアーを開始しているというではないですか!発売された「Live at the Orpheum」ではアイランド期の楽曲と「The Construction of Light」の演奏が実に素晴らしい。過去の曲を演奏することを拒んできたあのフリップが、数々の名曲をたずさえての再結成ツアーです。

公演前に私が一番期待していたのは「Larks’ Tongues in Aspic, Part 1」の演奏です。今回のツアーでは毎回ではないにせよ、このPart1を演奏してくれているのです。フリップの生演奏でこの曲を聴ける可能性があるなんて誰が想像していたでしょうか。すでに終了した公演のセットリストを見ると、「Larks’ Tongues in Aspic, Part 1」、同じく「Part 2」、「Red」の3曲は演奏したり、しなかったりのようなので、できればPart1を演奏してくれますように!と願いながら行ってきました。

少し時間を押しての開演だったと思います。「演奏中は撮影禁止」などの内容を書いたステージ前の立て看板が取り外されると、自然と会場から拍手がわき起こります。「トニー・レヴィンがカメラを向けたときだけ、撮影OK」というフリップ直々のアナウンス放送後、いよいよメンバー7人の登場で盛り上がる会場。三つ揃えのスーツで現れたフリップはジャケットを脱いで脇に掛け、いつものようにスツールに座ります。昔はフリップだけ照明が逆光で暗く、顔もほとんど見えませんでしたが、今回は他のメンバーと同じ明るい照明。

1曲目はアルバム「ポセイドンのめざめ」からの「Peace - An End」で静かにスタート。その後、「メルトダウン」を含むハードな新曲群へとなだれ込みます。テロなど不安定要素の多い社会情勢と震災による原発問題を抱える日本を意識しての選曲、と私は受け取りましたがどうでしょうか。

「Live at the Orpheum」発売時に疑問視もされていた今回のトリプルドラム編成、ドラムが3人も必要なの?という声は当然ですが、実際に目の当たりにした印象は、これはまさに新たなドラムバンドだ、ということ。ステージ前列に陣取った3人のドラマーの動きが常に目を引き、主要なパフォーミングアクトを担っています。3人でたたいている時もあれば、2人でだったり、1人だったり。このパートではマステロットがたたいているのか、などそれぞれの役割を見る楽しみもあります(ギターも2人いるしね)。マステロットが左側でハードに体を動かしてたたくのに対して、右に位置取るハリソンが姿勢を正しくしてたたくのも好対象。中央のリーフリンはシンセ(機材には詳しくありませんが、まさかメロトロンではないよね?)に専念していることが多いことも分かりました。

前半のヌーブォーメタルな選曲の後、7曲目で「The Construction of Light」、以下「Pictures of a City」「 Easy Money」「A Scarcity of Miracles 」「The Letters」「Sailor's Tale」と続きます。73~74年のライブで数々の即興バリエーションを産んだ「 Easy Money」、アイランド期の名作「Sailor's Tale」を生で聴けて感涙。フリップとは反対側の向かって左側席だったからか、フリップのギター音がもう少し大きかったらなあ、とも思いましたが、後半にかけてあの独特の音色のサスティーンの効いたギターソロも多くなり、オペラグラスの揺れを押さえながら、演奏する様子をアップで見させていただきました。

場内照明が一面赤に変わる演出の「 Starless」で一旦終了。声援に答えるトニー・レヴィンがカメラで観客席を撮影していることに気付き、こちらも慌てて鞄からスマートフォンを取り出してなんとか撮影したのですが、レヴィンが撮影するのはアンコールが終わってからだと思って何も用意してなかったのは不覚でした。
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アンコール1曲目は「The Court of the Crimson King」、そして2曲目が「21st Century Schizoid Man」。
最後のこのスキッゾイドマンの演奏は圧巻でしたね。私はコンサート全体の音量をもう少し下げてもらえたらなあと思っていたのですが、というのも静かなパートも音量が大きくて激しいパートとのメリハリが少なく、音量を若干下げれば音の輪郭もさらにクリアになるのかなと。しかし、スキッゾイドマンの演奏は最初から最後まで、最大の音量音圧が実にふさわしい圧巻の演奏でした。中間部のソロパートは最初にフリップ、次にコリンズ、最後にハリソンで、このハリソンのドラムソロが実に力強い。怒濤のような演奏で終了しました。
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※フリップが前の人の手で隠れて見えない。

個人的にはパート1が演奏されなかったことに少々落胆。アンコールでスキッゾイドマンの始まりを知らせる風の効果音が聞こえると、うれしいやら悲しいやらで複雑な気持ち。スキッゾイドマンの後にパート1ってことはないでしょうからね。宮殿かエピタフ、どちらか抜いてでも演奏してほしかった。

アンコールは3曲あるかな、と思っていたのに2曲。家に帰って他の日本公演を調べてみたら、東京公演の9日と10日も3曲ではなく2曲。でもよく見ると他の公演は全部で18曲演奏していて、7日などは19曲も演奏している。それに対して私が聴いた13日は15曲止まり。しかも前日12日の大阪公演はパート1とパート2とレッドと、日替わりと思われた3曲とも演奏しているではありませんか!それに引き替え我々には、よく考えればそのいずれも演奏されていない!
どうやら曲目的には、はずれくじを引いてしまったようです。

ただ、物品販売で迷って買った「The Elements Of King Crimson 2015 Tour Box」と「RedTシャツ」は、どちらも当たりだった。ツアーボックスセットはブックレット付きのCD2枚組。先に発売されていた2014ツアーボックスセットに毛が生えたものだろうと思い、初音源が数曲だけ入った寄せ集めだろうけれど丁度持ってなかったし、ということで買ったのだが、それは私の勘違いで全くの別物だった。新たに2015ツアー用に編纂されたもので、全29曲のうち20曲がpreviously unreleased on CDとなっており、うち5曲が2014年のリハーサルorライブ。実際、私自身は聴いたことがないものがほとんどで、「Part 2」の2014年リハーサル音のあとに'74年の「Part 2」ライブ音源が続くなど心憎い演出もあり、寄せ集めでありながら全体で聴いてもうまく聴ける構成になっている。CD2のラストには、このメンバーによる2014年10月サンフランシスコ「スキッゾイドマン」が収録されているのもうれしい。
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アマゾンでも買えるようだが、会場で買えば特性タオルもオマケに付いて3,000円。こちらの方が断然お得。私は2,500円のツアーパンフを買わなかったのでわからないけれど、今から残る高松、東京、名古屋公演に行く人は、こちらの方が買い、だと思います。

前回、ライブに行った時買ったTシャツは、サイズが大きすぎてほとんど着ることがない状態だったので、若干お高いTシャツもリベンジで買ってみました。アメリカサイズであることを販売員さんに確かめてMではなくSサイズを買ったのだが、家に帰って着てみるとぴったり。ちなみにフェスティバルホールの物品販売はチケットを持ってない人でも並んで買えるように会場外に設置されていて、なんだか嵐のようだなあ、と思ってびっくりした(嵐ファンの娘は物品を買うためだけに会場に行ったりしていた)。

追伸
トニー・レヴィンのウェブダイアリーに大阪公演の模様がアップされました。2日目の会場風景に私も写っているはずですが、前から18列目の位置は小さくて確認できない。
これを見ると、1日目と違って2日目は3階席の空席が目立ちます。そんなこともセットリストに影響したかなあ。(n.m.)
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by matsuo-art | 2015-12-15 11:06 | 音楽  

ルー・リード氏死去 享年71 歳

ルー・リード氏の訃報が届きました。 享年71歳。我々世代に多大な影響と業績を残した大きな才能が、またひとつ消え去ってしまいました。

1960年代「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」のリーダーとして活躍したルー・リード氏。私は90年代にルー・リードのソロライブに2回行きましたが、特に1回目のライブがとても良かった。メンバー4人による中規模会場でのシンプルなロック、エフェクト類も60年代・70年代そのままの音で、ダイレクトに身体に響いてくるものでした。

ルー・リード氏について私はそれほど詳しい訳ではありません。「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」はアンディ・ウォホールによるバナナのジャケットでとても有名なアルバムですが、ちゃんと聴き通した記憶はありません。画家で映画作家のジュリアン・シュナーベル氏が撮った、ソロアルバム3枚目「ベルリン」を30年ぶりに演奏したステージ映像も入手しましたが、暗澹たる想いになるその退廃的な暗さは好きになれるというものではありません。それでもルー・リード氏の音楽が私を引き付けて離さないのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバム「ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート」があるからです。
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このアルバムはすごい。あるいは、このアルバムとの出会い方がすごかったのかも知れませんが、とにかく私にとってルー・リードとは、このアルバムだけでも十分なのです。音楽的な技術がうまいとは決して言えない若者たちが放つこのアルバムの開放感は、そう簡単に他のもので得られる質のものではありません。

その質をもう一度確かめようと手元にあるはずのCDを探したのですが、アトリエに持っていったのか見つけられず、その代わりに1万5千円もする「ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート(45周年記念スーパー・デラックス・エディション)」が12月中頃に発売されることを、アマゾンの検索で知りました。未発表の音源、マイナーな音源や映像がいろいろと出てくるのかもしれません。けれどもそれらが、アルバムに凝縮された粗雑な開放感を薄めてしまう可能性もないわけではありません。
 
私は今、1万7千円もするking crimsonの「Road to Red Box」日本版の発売を待ちこがれていますが(日本版が出るという情報を入手して輸入版に手を付けずに待っているのだが、本当に出るのだろうか)、大量の未発表音源を管理し、常にそれらを発表し続けてきたこのバンドについては、未発表音源が何かしらの新たな感動を生むことが期待できるのです。私にとっての「ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート」は、やはりアルバムだけで十分であるような気がしています。(n.m.)
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by matsuo-art | 2013-10-28 22:30 | 音楽  

高橋幸宏コンサート「Yukihiro Takahashi with In Phase Live Tour」

9/16(月)に、大阪なんばハッチの高橋幸宏コンサート「Yukihiro Takahashi with In Phase Live Tour」に行ってきました。

今回のツアー、当初は行く予定はなかったのです。そもそもコンサートというものに十何年も行っていませんし、新譜「LIFE ANEW」は試聴してシンプルなポップロックの良盤であることは分かっていましたが、生誕60年記念DVD+CDの購入で少々散財していたので、大阪に来ると知ってはいたものの今回はパスして、CDもまたいずれ買おうと考えていました。ところが大阪会場のチケットが1週間前にまだ購入可能とパソコンに出てきたのもですから、考えてしまいました。幸宏氏もいまや61歳、大阪までコンサートに来てくれる機会はそう多くないのでは、と思い、つい購入ボタンをポチッと押してしまったのです。
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実際行ってみると、ソロとしての大阪公演は30年ぶりだと言います。タイトなドラムと独特なボーカルは健在で、何よりも幸宏さんが全編ドラムをたたいてくれたのが良かった。YMOの散開コンサート(大阪城ホール)ではすぐにデヴィッド・パーマーに代わってしまい、がっかりしましたから。あの頃はドラムをたたきながら歌うと音程が‥‥という理由であまりたたいてくれませんでした。
後半はMCで話しも結構してもらえましたし、行って良かったです。

新譜を聴かないまま行ったのでどうかな?とも思いましたが、初めて聴く曲でも、例えばギターのジェームス・イハ氏の最後の曲などはとても良かった。でも、アンコールの聞き慣れた曲にはさらに身体的反応が良好だったので、やはりコンサートでは事前にアルバムを聴き込んでいた方がより楽しめるとも思いました。

アンコール1曲目の”something in the air”は、学生の頃によく聴いていた曲です。「ライブでドラムを叩きながらこの曲を歌うのは初めて」とおっしゃっていましたが、この大阪公演がツアーの始まりでしたから、文字通り「初めて」だったはず、それもなにか特別感があってよかったです。
2曲目がバカラックの”エイプリルフール”。30年前もラストだったと言うこの曲をしみじみと歌って終わりました。

私はサディスティック・ミカ・バンドからの幸宏氏のファンですが、氏のロマン主義やセンチメンタリズムが全面に出てくるとついていけない部分もあり、90年代のソロは全く聴いていませんでした。今世紀になってまた聴くようになったのですが、一番影響を受けたのは、17、8歳の頃に出会ったファーストソロアルバムだと言えます。そこには次のようなメッセージが載っています。
「‥‥はてさて日本人であるからなのか、それとも加工貿易的東京人間の特技か、いくつもの異なったスタイルの音楽を軽薄なまでに聞き、そして愛してきました。」
程度の差はあれどそこには感覚的に共感するものがあり、私の文化的受容と表出は、その言葉に寄り添ったり離れたり、周囲を巡りながら今日まで来ています。(n.m.)
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by matsuo-art | 2013-09-24 22:53 | 音楽  

ウディ・ガスリーと「怒りの葡萄」

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ウディ・ガスリーは、大恐慌時代の中で自らも「ホーボー」としてアメリカを放浪しながら、不況や凶作など過酷な社会情勢に翻弄される農民や労働者とともに生き、その苦悩や喜びや悲しみを1本のギターにのせて歌ったアメリカの吟遊詩人のような人です。(初期の)ボブ・ディランの師匠のような存在だった人といえばわかりやすいかもしれません。僕自身は、ウディ・ガスリーは、「全てのギターを抱えて歌を歌う人」の始祖のような存在だとすら思っています。

今年はウディ・ガスリーの生誕100周年で、特設サイトを見てみると、アメリカでは7月のウディの誕生日を中心に大小のさまざまなイベントがあるようです。他にもスミソニアン・フォークウェイズから3枚組の大きなボックスセットが出ましたし、日本盤でも、大恐慌時代にオクラホマの砂嵐(ダスト・ボウル)から逃れて「夢の」カリフォルニアに向かう農民たちの姿を歌った曲を集め、1940年に発表された「Dust Bowl Ballads」というアルバムが再発されました。(たったそれだけ?というのも寂しいのですが。)

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ダスト・ボウルとは、30年代に断続的にアメリカ中部のグレートプレーンズと呼ばれる地域を中心におこった大砂嵐のことで、ウディが「Dust Bowl Ballads」の中で歌っているように、特に1935年4月14日におこった砂嵐は凄まじく、空を真っ黒に覆い尽くし、町や畑を砂塵で覆ってしまったといいます。また空中高く巻き上げられた砂塵は東へ運ばれ、遠くシカゴやニューヨークでも降り注いだと言われています。

1935年4月14日  最もひどい砂嵐が襲ってきて町をすっかり覆ってしまった
その嵐がやってくるのがちゃんと見えた
雲が気味悪くまっくろで  この強力な国を駆け抜けて悲惨な爪痕を残していった
オクラホマ・シティからアリゾナのところまで
ダコタとネブラスカからゆったりとしたりオ・グランデまで
この市をも駆け抜けた  黒いカーテンが広がるように
これが最後の審判の日だ  俺たちはみんなそう思った
                       (ウディ・ガスリー「恐るべき砂嵐」より抜粋)

書いておかなければならないこととしては、このダスト・ボウルは多分に人災的な性格を持つ、ということです。無計画で過剰な開墾と深い鋤き込みによってあらわになった土壌が旱魃によって乾燥し、強風によって吹き上げられたものとされています。また、農具などの購入の為に過剰に銀行から貸し付けをされた農民たちが借金を払えなくなり、土地を捨ててしまったことにも一因があるという話を聞いたことがあります。(とすると、ダスト・ボウルは大恐慌とも相関関係にある、とも言えるのかもしれません。)
そんなダスト・ボウルに加えて、不況や大資本家による土地の搾取によって今まで住んでいた土地を追われた多くの農民たちは、温暖で果実がたわわに実り、仕事がふんだんにあるという噂だけをたよりに「夢の」カリフォルニアを目指して、おんぼろトラックに着の身着のままの家族全員と家財道具を満載して、競うように長い放浪の旅にでていったといいます。

「Dust Bowl Ballads」は、自身もオクラホマの出身であるウディの体験や取材から生まれたものに違いないですが、同時に、スタインベックの小説「怒りの葡萄」(1939年)の大きな影響のもとに生まれたものでもあるようです。なぜならば、「Dust Bowl Ballads」中の曲に「トム・ジョードの歌」という、まさに「怒りの葡萄」の主人公のことを歌った曲があるからです。また「自警団員」という曲の中にも登場人物の一人である説教師ケーシーの名がでてきます。「Dust Bowl Ballads」は自分自身の人生と「怒りの葡萄」の世界観とを重ね合わせて作ったアルバムなのですね。

スタインベックの「怒りの葡萄」は有名な小説ですが、僕自身はこれまで読んだことはなく、また(同様に有名な)ジョン・フォード監督による同名の映画(1940年)も見たことはありませんでした。「Dust Bowl Ballads」の世界をより深く理解したくて今回初めて読んでみましたが、一言で言えば、凄い小説でした。
上で書いたような、農民たちが土地を追われて流浪せざるを得ないような状況、そしてようやくたどり着いた「楽園」であるはずのカリフォルニアに待ち受けていた移住民を巡る過酷な現実。農民たちは「オーキー」と蔑称されてスラム(「フーヴァーヴィル」と呼ばれた)に追いやられ、資本家に搾取され、労働力を買い叩かれ、権力によって虫けらのように扱われます。そんな中にあって、登場人物たちは人間としての誇りを失わず、独自の倫理観を持って何とか生き抜いていこうとします。
事実をもとにしたその小説世界の造形力の力強さに加えて、その人間観察の深さと細やかさ、そして何より小説全体がはらんでいるその普遍的な意味(メッセージ)に圧倒されました。個人的には、学生時代に読んだガルシア=マルケスの「百年の孤独」以来の感動、といえるほどです。(ただ、僕が読んだ新潮文庫版は訳が古くさくて少々読みにくいのが難点です。)

ウディ・ガスリーの生誕100周年がきっかけで、1930年代にアメリカで起こったダスト・ボウルとその周辺の出来事に改めて興味を持つようになった訳なのですが、そうしたことを見聞きすればするほど、なにやらそんなに遠い昔の、別の世界の話とは思えなくなってきたのです。
昨今のサブプライムローンに端を発する大不況は、当然透けて見えてきます。また、放射能という「見えないダスト・ボウル」と、そのために生まれ育った土地を離れざるを得なくなった人々を巡る状況も透けて見えてきます。そしてどこであろうと政府は昔も今も大企業の論理でしか動きません。

「怒りの葡萄」や「Dust Bowl Ballads」は今もアクチュアルな問題提起をし続けていることを改めて思い知らされるとともに、新しい「怒りの葡萄」が書かれ、新しい「Dust Bowl Ballads」が歌われなくてはならないのだ、と思うのです。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2012-08-29 14:37 | 音楽  

NHKドキュメンタリー「3月11日のマーラー」

3月10日にNHKで放送されたドキュメンタリー「3月11日のマーラー」を見ました。アトリエでひとり携帯のワンセグで見ていたのですが、自然と涙がこぼれてきました。

1年前の3月11日のあの日、多くのコンサートが中止された東京で、指揮者にダニエル・ハーディング氏を迎えた新日本フィルハーモニーは、マーラーの交響曲第5番を演奏しました。完売したチケットで1800席は満席になるはずでしたが、実際に来場した観客はわずか105人、そこで行われた知られざる奇跡の演奏を、残された映像と当事者たちの証言によって再現した番組です。

人間は自然の一部でありながらも、そこから独立しようとする、矛盾に満ちた存在です。我々人間は、特に日本人は、自然を尊重し、うやまい、共存してきました。しかし時に自然は、人間独自の文明・文化・芸術を破壊するほどに、猛威をふるいます。

人間の営みである文化・芸術の究極のメッセージがあるとすれば、それは「あなたたちを尊敬しています。けれど、その美しさにも、猛威にも、負けられません」と自然に対して言うことなのではないか。そんなことを最近私は考えています。
3月11日のマーラーに、私はそのメッセージを感じました。人間の文化・芸術が、自然の猛威に対して屹然と行ったその行為を、番組は伝えています。

私は普段クラシックは聴かないので、マーラーの交響曲第5番といっても映画「ベニスに死す」の冒頭で使われた、美しくたゆたうような第4楽章しか知りませんが、この曲全体は「悲劇で始まるが、われわれを幸せで穏やかな場所へと導く(ハーディング氏)」構成なのだそうです。この曲が、あの日の演奏にふさわしい演目であったことも、この名演奏がなされた所以です。

特殊な状況での名演に立ち会いながらも、ある種の後ろめたさから誰にもその経験を話す事ができなかった聴衆の方、演奏中に飛来した様々な思いを語る団員の方々、番組の中のそれらの言葉は、人が「音」にたいして抱く繊細で豊かな感性について、その可能性について、改めて感じさせてくれるものでした。(n.m.)
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by matsuo-art | 2012-03-12 23:30 | 音楽  

Ryuichi Sakamoto Trio : Europe 2011

坂本龍一トリオのヨーロッパツアー、10月29日のパリ第1回公演の模様がUSTREAMで全編公開されています(3日間ほど視聴できるようです)。

ピアノで静かに始まる一曲目、オーケストラのような音が入って来た次に鳴ったピアノの不協和音に驚き、タイトルを見ると、「fukushima #01 」。思わずたたずまいを正す。

不協和音に喚起される感情。
改めて音楽の力を感じる。
(n.m.)
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by matsuo-art | 2011-10-31 01:59 | 音楽  

ケイト・ブッシュ「ディレクターズ・カット」

ケイト・ブッシュ9作目のニューアルバムは『センシュアル・ワールド』『レッド・シューズ』という過去2つの作品から選曲・新録した初のセルフ・カヴァー・アルバム。『センシュアル・ワールド』も『レッド・シューズ』もあまり良いアルバムとは思わずほとんど聴き込んでいなかったので、その情報を聞いて逆に、さすがだなあ、と思った。
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私がケイト・ブッシュの作品で好きなのは4作目の『ドリーミング』と5作目の『ハウンズ・オブ・ラブ(愛のかたち)』。この2枚はケイト・ブッシュの最高傑作というのみならずポップミュージック界の金字塔だと思っているので、これらを基準にしてしまった時、『センシュアル・ワールド』も『レッド・シューズ』もかすんだものに映ってしまった(8作目の『エアリアル』も発売当初はかすんでいたが、今は好きなアルバムとして聴いている)。どうやら本人もそう思っていた、ということだろう。
ただ、『センシュアル・ワールド』のタイトル曲「センシュアル・ワールド」だけは、どこまでも漂い続けるような曲構造と「Yes‥」という歌詞の連呼が特徴的で、唯一好きで聴いていた曲だった。今回この曲が「フラワー・オブ・ザ・マウンテン」と改題されて納められているのだが、これが違和感のあるアレンジとなって一曲目に登場するのだ。

まず、最初の鐘の音がどことなく堅い。低いため息で始まるボーカルも、その妖艶さが魔女が語っているかのようなトーンになっていて、不穏な感じさえする。軽やかに漂い広がるような元の曲の印象から大きく隔たっていて、効果的だったドラムも消えている。
(鐘の音のちがいは、ジョン・レノンの「マザー」と「スターティング・オーヴァー」の鐘の音のちがいを連想してしまった。)

もともと「センシュアル・ワールド」はジェイムズ・ジョイスの文学作品『ユリシーズ』の一節をそのまま歌詞として引用して創られたものだったらしい。当時ジョイス財団から使用許可が降りなかったのでケイトが歌詞を書きかえていたのを、今回許諾が降りて、もともとの歌詞で実現したという。句読点なしで延々とセンシュアルな語りが続くという内容のようなのだが、そうなるとこの印象の違いは、ケイトのジョイス作品に対する解釈の当時との違い、あるいはもう一つの解釈、と取ってよいわけで、最初はなんでこのような内容にしたのだろうといぶかっていたものの、無駄な音をはぎ取りより近い地層に降りて来たかのようなボーカルを何回も聴いていると、最初の違和感は違和感として受け入れつつ、その世界にもだんだんとはまり込んでしまった。

一方、『レッド・シューズ』からのラスト曲「ラバーバンド・ガール」は、キャッチーな良い曲なのだろうけれど音がなあ、と思っていた曲だったのだが、このニューアレンジは手放しで歓迎できる出来で、すばらしい。ストレートに前進していくドラムに、こちらは一転してキュートでボーイッシュなボーカルが乗った、どこか60年代ロックを思わすアレンジ。
他にも大仰な盛り上がりを排したバラードのアレンジなど、何度も聴き返すことができるアルバムに仕上がっている。元はシャリシャリと耳障りな感じだった音質も、まろやかで落ち着いたものになっている。

もう2度と作る事はできないかもしれない狂気すれすれの豊穣世界『ドリーミング〜ハウンズ・オブ・ラブ』を基準にするのはフェアではないな、と『エアリアル』を受け入れた時点で思うようになった私としては、ケイト・ブッシュが完全復活した、と感じる今日この頃です。(n.m.)
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by matsuo-art | 2011-08-23 22:38 | 音楽  

ピアノ夜話 その8/ホルショフスキーと合気道の達人

先週の後半は京都で4日間連続で合気道の講習会に参加していました。日本全国さらには世界の様々な国からたくさんの合気道家がこの講習会に参加しに来ていて、そんな中にどっぷりと浸かって合気道三昧の4日間でした。
この講習会の講師はフランスから招かれた師範と東京の本部道場から招かれた師範、2人の師範が指導するものでした。どちらの師範の技もシャープで、無駄がありません。こうした技の数々を目の前で見、技をかけてもらって身体で感じ、自分でも実際にやってみて幾分なりとも体得しようと試行錯誤する場であることが、こうした講習会の意義なのです。

ところで、今回の2人の師範はどちらも60歳以上の年齢です。見た目は60歳には見えない若々しさではあるものの、年齢だけ聞けば「老人」と思われても不思議ではないお年です。こうした「老人」の師範が2時間も休みなしで屈強な若者や壮年の合気道家をバシバシ投げ続けるのです。
このお二人の師範に限らず、世界的に高名な合気道の師範はたいてい60歳以上ですが、所謂アスリートとしては一般的に言ってとっくに引退していてもおかしくない年齢の師範の技を学びに、世界中の合気道家が様々な講習会に集結するのです。これは合気道の技における身体の使い方の原理が、他の競技スポーツなどのそれとかなり違ったものであろうことを意味しています。

合気道ではよく「勝とうとしてはいけない」と言います。相手に勝とうとする意識は主客を分離させ、心に偏りを生じさせます。心が偏るとは、つまり「隙」があるということです。あるいは「居着く」(機敏に動かねばならない時に動けなくなってしまう)ということです。どちらも致命的なことです。だから合気道は、主客の境を無くし、力まず、自然の理のままに動いていくこと、あたかも「動くままに動く」ような境地を目指して稽古するのです。師範の無駄の無い動きで最大の効果を発揮するような技はそれを表現しています。これは一種の芸術ではないか、と僕自身は思っています。
(ただ、そうした境地に一挙に到達できるわけはないのは言うまでもないことです。そうしたレベルになるために、逆説的なことですが、まずは全身の動きを分析して意識化して行く作業が必要だし、相手をしっかりと感じて、どのように自分が動けば相手を効果的に動かせるか試行錯誤して行く作業が不可欠なのです。)

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ところで、最近、ミエチスラフ・ホルショフスキーというピアニストのCDを聴きました。1987年、東京でのリサイタルを記録したライブ盤です。この時、ホルショフスキー氏の御年95歳。音楽家はかなり高齢になっても活躍する人が多いですが、95歳の現役のピアニストというのは聞いたことがありません。楽器を弾いたことがある人は実感できるでしょうが、楽器を弾くのは非常に体力のいる作業です。ましてやリサイタルが成立する一定の時間、緊張感を持続しつつ音楽を生み出す作業は相当な体力が必要とされるのではないかと思います。

演目はバッハ、モーツァルト、ショパン、メンデルスゾーンなど。ここまで高齢となると出てくる音もヨレヨレなのではないか?と思いますが、CDを聴いてみると、芯があってしっかりした音で、指回りも非常に軽快です。ホントに95歳の演奏なのか?と信じられない気持ちです。しかしそんなことより、その演奏には、自己顕示や作為的な解釈からくる「力み」のようなものが微塵も無く、あたかも音楽そのものと一体になったかのような天国的な軽さがあり、そのことに非常に感銘を受けました。
ホルショフスキーは、ソリストとしてよりシゲティやカザルスの伴奏者として名を知られていた人なのですが、晩年その演奏の素晴らしさが再認識されて録音や公演のオファーが増えていったといいます。この東京公演前後のリサイタルを集めた他の盤などを聴いても、淡々と音楽の大海の中を歩んでいくような姿勢は変わりません。弾くがままに弾く。こういうのを「自然体」というのでしょう。ちっぽけな自己があーだこーだとこねくり回して出してくる「表現」ではなく、自己を超えた自然の潜勢力と一体化するようにして、こんこんと音楽が湧き出してくる様がはっきりと見て取れるようです。

ホルショフスキーは最終的には99歳まで現役で活動しました。100歳の記念のリサイタルが企画されたのですが、体調を崩してキャンセルされ、そのまま亡くなられたということです。

合気道の師範やホルショフスキー以外にも、年を取ってから非常に良い作品をつくったり、晩年近くになって新たな境地を開いた芸術家はたくさんいます。ベートーヴェン、モネ、セザンヌ、マチス、熊谷守一、チェリビダッケ、大野一雄、マヌエル・ド・オリヴェイラ、熊田千佳慕・・・。
若くて勢いがあり豪華絢爛な芸術も素晴らしいのですが、年を取ったら取ったでその経験値や思考の深まりに相応した境地があり、生命が続く限り変化、進化、深化、成長があります。当然のことかも知れませんが、だから芸術は面白いのだ、と思わずにはいられません。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-06-15 00:13 | 音楽  

ピアノ夜話 その7/高橋悠治のジョン・ケージ「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」

高橋悠治の存在を教えてくれたのは、やはり当研究室の塾長M先生でした。と言っても80年代、学生時代の話です。いつのことだったか正確な年は忘れましたが、何かの折り、梅田の紀伊国屋の音楽書のコーナーで「君が読むならこれが良いだろう」と、何冊か出ていた高橋悠治の著作の中から「たたかう音楽」を推薦してくれたのでした。ちなみに、M先生には柄谷行人の「探究1」や中上健次の小説、藤枝晃雄のフォーマリズム批評のことなど、後に僕のなかで大きな存在になる書物のことも教えてもらいました。

大学時代にはいろいろな先輩や同級生に、読んでおくべき、観ておくべき、聴いておくべき、本や映画や美術作品や音楽のことを示唆してもらったものです。
思いつくままに例を挙げれば、今は漫画家のS先輩には浅田彰の「逃走論」を、今は郵便局長のY先輩にはメルロ・ポンティと草間彌生の名前を、今は環境計画をしているM女史にはタルコフスキーの「ノスタルジア」を、今は陶芸家のS氏にはアンゲロプロスの「シテール島への船出」と蓮實重彦の「表層批評宣言」のことを、今は芸術学を研究しているD女史にはガルシア=マルケスの「百年の孤独」のことを、今はアメリカでデザイナーをしているT先輩にはフェリーニの「8・1/2」と「武満徹」の名前の読み方を、今は大学教師のW君には岡本太郎の「今日の芸術」のことを・・・などなど、大学時代に知ったこうした知識が幹となって、枝葉を広げていくことができたと思います。とりわけ、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」という小説のことを知ったのは僕にとって決定的な事件で、この小説に出会っていなかったら今頃絵を描いていないかもしれないくらいです。(Dさん、この場を借りて御礼申し上げます。)

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高橋悠治はクラシックや現代音楽を演奏するピアニストという枠に留まらず、作曲家として、著述家として、コンピューターを使った即興演奏、そして「水牛楽団」という民衆のためのうたを演奏するグループを組織するなど、その活動は多岐に渡っていますが、僕は、前述のように、彼の音楽よりも前に著作によって彼を知りました。

「たたかう音楽」「音楽のおしえ」など、その頃読んだ著作で印象に残ったのは、バッハやベートーヴェンといった今や権威になってしまった音楽とそれを取り巻く状況に対する歯に衣着せぬ批判や、オーケストラという指揮者を頂点としたハイアラーキー的組織ではなく、オーケストラを構成する団員自身が自発性を持って音楽を生み出していくような自主管理的な組織論の提案、そして、音楽が権力者のための道具や贅沢品に成り下がるのではなく、音楽が人々とともにある「生きるための音楽」を生み出すためにどのように実践すべきか、といった内容です。そして、そのような現代の音楽を巡る状況に対する批判的な姿勢と、来るべき新しい音楽を指向する非常に精緻な考察に大きな影響を受けました。
その一方、少し遅れて耳にしたエリック・サティやバッハの「フーガの技法」など、彼のピアノの演奏のあたかも夢見るようなトーンにも魅了されました。(著作から読み取ったトーンとの間に大きなギャップを感じたのは事実ですが。)

その後、彼の著作や発言、リリースされた音源を追いながら、いろいろな音楽や書物の存在を知ることができました。それは、シューマン、バルトーク、クセナキス、メシアン、ホセ・マセダ、グバイドゥーリナ、カラワンといった音楽家から、ソクラテス以前のギリシア哲学、老子、インド哲学、初期仏典、ウ゛ィトゲンシュタイン、カフカ、身体論などの著作の数々に至ります。(それらの全てを消化できているわけではなく、今も棚に積まれたままになっているものも多いのですが・・・。)

ジョン・ケージも、ちゃんと聴いたのは、この高橋氏の演奏「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」が初めてです。ケージの音楽は学生時代にはなかなか手に入れにくかったし、見つけたとしても、良いかどうかわからない「前衛的な」音楽を生活費を削って買うのはかなり勇気がいりましたから・・・。
この演奏はもっとずっと後になって聴いたのですが、一聴して即座に気に入ってしまいました。こんなに面白くて美しい音楽ならばもっと早く聴いておけば良かった、と思いました。
第1印象は、「ガムランみたい」というものでした。ガムランのように残響が延びていくことはないのですが、その音階やリズムが東南アジアの音楽をイメージさせるように感じられたのです。

プリペアード・ピアノとは、ピアノから意外性のある音が出るように、ボルトやねじやゴムやプラスチック片や木片などをピアノ内部の弦の間に挟み込むことで準備(プリペアー)されたピアノのことです。それによって、ピアノという近代音楽を象徴するかのような楽器の脱構築、すなわち、その「美しい」が同時に制度的になってしまってもいる音色を変化させ、あたかも打楽器のような非常にプリミティブな楽器へと変貌させて、近代音楽によって位置づけられ拘束されたピアノという存在のあり方を解放することが目論まれているように思います。
まあ、そうした意図があっても、出てくる音が良くなければ、つまらない音楽になってしまうでしょうが、この演奏で高橋氏がプリペアーしたピアノからは、飛び出した音の粒子が空間をキラキラしながら舞い踊ったり、部屋の隅で音同士がヒソヒソと内緒話をしたり、目の前で追いかけっこをしたり、音と音が互いに呼び交していたり・・・など、そんなすごく可愛い音たちを、いつまでも見つめていたいような気持ちにさせられます。

「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」という音楽は、ピアノのプリペアーのされ方によって、同じ楽譜であっても演奏される度に出てくる音は変わってくることでしょうし、また、一回の演奏内であっても、同じ音を次に弾いても同じようには音が出るとは限らないのではないかと想像します。一度音を出すと弦が振動して、挟み込まれた「異物」の状態が変化するでしょうから。演奏者は楽譜をみて、出てくる音とのギャップを常に感じ、楽譜と実音との関係をリアルタイムで再構築しながら演奏することを余儀なくされるのではないでしょうか。
そのようなケージの音楽は一般的に「偶然性の音楽」として理解されています。しかし、僕は「偶然性」という何だか無害な響きのむこうに、厳粛な何かがあるように思えるのです。突き詰めて考えていけば、全ての音楽は宿命的に一回性のものであることを、どんなに普遍的なものを目指そうとも、現実的には「偶然の織物(タペストリー)」の中に奇跡的に、そして一回ごとにその都度新たなものとして生まれるような存在であること・・人間や、この世界の有り様と同じように・・を、改めて思い起こさせるのです。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-05-01 03:43 | 音楽