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是枝裕和監督「そして父になる」 第66回カンヌ国際映画祭で審査員賞

ちょうど1週間前の5月27日(月)未明に、是枝裕和監督作品「そして父になる」が、第66回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞しました。この映画は、先日亡くなられた俳優の夏八木勲さんの最後の映画でもあります。

夏八木さんも出演していたテレビドラマ「ゴーイング マイ ホーム」で見せていた映像表現の質の高さと、9年前にカンヌで主演男優賞を獲った「誰も知らない」に通じる社会性、普遍性のある内容と、両方を併せ持った作品であろうと思っていたので、パルム・ドールでなくても何かの賞は獲るのではないかと期待していました。受賞して本当に良かったと思います。
審査委員長のスティーブン・スピルバーグ氏も「『そして父になる』は映画祭の期間中、なにかしらの賞から外そうと思ったことは無かった」と是枝監督に語ったそうです。

受賞式の様子をTVの生中継で見ていて気づいたことは、カンヌの賞の種類は思いのほか少ないのだな、ということです。映画の授賞式でまず思い浮かべるのはアメリカのアカデミー賞ですが、アカデミー賞では作品賞、主演男優賞、主演女優賞の他に、監督賞、脚本賞、撮影賞、美術賞、編集賞、作曲賞、録音賞、衣装デザイン賞、などなど、裏方に対する賞を含めてたくさんあります。助演男優賞、助演女優賞もあります。

それに対し、カンヌのコンペティション部門は、最高賞のパルム・ドールの他には、グランプリ、監督賞、脚本賞、女優賞、男優賞、審査員賞、があるだけです。調べてみると、ヴェネツィア国際映画祭も同じような感じですね。

そもそもアカデミー賞は「映画祭」とは言わない、ということを今回初めて知りました。「映画祭」は基本的に”新作”を上映して賞を与えるものだそうです(国内だけでの上映済みはOK)。アカデミー賞は、その年に上映された映画の中からノミネート作品を選んで賞を与えるので、発想が逆になりますね。アカデミー賞のイメージを映画祭に当てはめること自体が違う、ということです。

映画祭での賞の少なさを考えると、今回の審査員賞受賞もそうですが、2004年にカンヌという国際舞台で「誰も知らない」主演の柳楽優弥氏が男優賞を獲得したのは、最年少受賞ということも含めて本当に画期的だったのだなあ、と改めて思います。

「そして父になる」の撮影監督は広告などをよく手がけている写真家の瀧本幹也さんです。瀧本さんは、写真集「SIGHTSEEING」でユーモラスかつフォーマルなスナップ写真を撮っていて私も好きですが、撮影監督をされていると知ってびっくりしました。映画のような動画の仕事もいままでにされていたのでしょうか?「ゴーイング マイ ホーム」も瀧本氏だったのかなあと思って調べてみましたが、これは違うようです。

「そして父になる」の国内上映は10月5日から。まだまだ先になりますが、待ち遠しい限りです。(n.m.)
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by matsuo-art | 2013-06-03 22:54 | 映画  

「はじまりの記憶 杉本博司」

「はじまりの記憶 杉本博司」を観ました。

「はじまりの記憶 杉本博司」は、現代美術家・杉本博司に長期密着取材したドキュメンタリーです。WOWOWで放映された45分の番組に新撮映像を追加して編集した83分の劇場公開版です。

大阪と京都で8月に上映していたときには杉本氏本人が舞台挨拶に来る日があったので、本当はそのときに見に行きたかったのですが、当日用事ができて行けずじまい、結局本日、新開地アートビレッジセンターでの上映最終日に観てきました。
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コンセプチュアルな写真作品から出発して、近年は彫刻、建築、伝統芸能(文楽、能)にまでその表現活動を広げている杉本氏。その制作の現場に取材して、氏の素顔と作品の全体像を伝えています。

氏のドキュメンタリーは2009年の国立国際美術館「歴史の歴史」展覧会時にも1本観ていますし、他のテレビ番組でも観たことがありますが、建築シリーズの撮影現場、護王神社の詳細、若き日のアイディアスケッチ帳、2011年の能舞台の演出など初めて知るシーンも多々ありました。

特に、氏の代名詞ともなる「海景」シリーズを撮った最初の動機が語られるところは、この映像作品の核となっています。その関連場所に能舞台を作り、さらには日本文化を未来へ継承する活動拠点へと展開する。過去と未来が重なり、個人史と人類史が交錯する、それがこの作家の醍醐味であり、作品の多くがミニマルで静的な外観を呈しているにもかかわらず、ダイナミックな魅力を感じる所以です。(n.m.)
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by matsuo-art | 2012-09-14 22:49 | 映画  

pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち

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ヴィム・ヴェンダース監督が、ピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団が作り上げた舞台のいくつかを3Dで撮影した映画「pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」を観に行ってきました。

今日が京都駅前のシネコン「T-JOY」での上映の最終日だったので慌てて行ってきました。この映画の事は昨年から知っていて、既に大分前にサントラ盤まで買って勝手に盛り上がっていたのですが、いざロードショーが封切りされると忙しい時期に重なってしまって中々映画館まで出向こうという気にならず、とうとう最終日になってしまったという訳でした。

この映画はシンプルに説明するなら、ピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団のレパートリーの中から「春の祭典」、「カフェ・ミュラー」、「コンタクトホーフ」、「フルムーン」という4つの作品を選んで3Dで撮影し、編集したものです。その合間にダンサーたちがピナの思い出を語るシーンがあったり、ヴッパタール市内でダンサーたちがソロやデュオで踊る美しいシーンなどが挟み込まれています。

まずはじめの「春の祭典」の群舞のシーンで、もうやられてしまいました。「これはヤバい!」という感じです。映像が高解像度でやたらクリアな上に3Dの効果もあって、ダンサーたちの肉体の物質的な迫力や息づかい、細かい表情まで生き生きと見えてきます。これまで僕が3回ほど経験した実際の彼ら/彼女らの舞台ももちろん生だから迫力があったのですが、映像ではダンサーにかなり寄ったり、ローアングルから撮影したり、と生の舞台とはまた違った(増幅された)迫力を感じます。撮影にあたってあらゆる角度から撮影する作品のことを検討したに違いないヴェンダース監督の緻密さやセンスがそうした効果を生み出しているものとも思いました。

僕は3Dの映画というは初めてだったのですが、中々不思議なものですね。「アバターならともかく、こういうドキュメンタリー映画で3Dというのは効果あるのかな?」と観るまでは懐疑的だったのですが、「舞台」という現実と虚構の中間的な空間を表現する上で、非常に高い効果があるなと感じました。
ダンサーの身体が立体的に感じられるというばかりではなく、うまく言えませんが、例えば前景で踊るダンサーが空間にきちんと定位されておらず、なにかその存在が宙づりになったような不思議な感覚を映画中に何度も感じました。そうした3D空間の持つ幻想性と、「ピナの不在」がもたらす寂寥感が結びつき、幽玄とも言えるような感覚が映画を支配しているように僕には感じられました。

芸術を志す、あるいは愛好する全ての人々に全面的にお勧めしたい作品です。3/26日現在、近畿エリアでは大阪で上映中のようです。まだ観ていない方は劇場へ急ぎましょう。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2012-03-23 22:07 | 映画  

速報 和田淳監督のアニメ作品、ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞!

速報です。当研究室出身のアニメ作家、和田淳氏のアニメ作品が、第62回ベルリン国際映画祭の短編部門で最高賞に次ぐ銀熊賞(審査員賞)を受賞しました!
おめでとうございます!

今日のNHK、夜7時のテレビニュースで流れていたのをM先生が見て、連絡してくれました。受賞した和田氏が英語でスピーチしている映像が流れていたとのこと。私も先ほど、関西テレビのニュースで見たところです。一夜明けて受賞の喜びを語る和田氏が映っていました。

すでに国際的に活躍して評価されていた和田氏ですが、そのユニークな作品がこれからますます世界の人々に届いていくことを思うと、本当に喜ばしい限りです。
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受賞作:グレートラビット 'The Great Rabbit' Trailer

和田淳(こどものなかのこども)

上記の和田氏のHPによると「明日20日(月)8時からのテレビ朝日『モーニングバード』に、ベルリン映画祭・銀熊賞受賞の和田淳監督が生電話出演予定」とのこと。羽鳥アナウンサーの番組ですね。楽しみです。(n.m.)

和田淳(WADA ATSUSHI) 略歴
1980年兵庫県生。大阪教育大学、イメージフォーラム付属映像研究所、東京藝術大学大学院で映像を学ぶ。2002年頃から 独学でアニメーションを制作しはじめ、「間」と「気持ちいい動き」を大きなテーマに制作を続けている。『鼻の日』(05)がノーウィッチ国際アニメーショ ン映画祭短編部門でグランプリ、『そういう眼鏡』(07)がリオ・デ・ジャネイロ国際短編映画祭で最優秀若手審査員賞を受賞。新作『わからないブタ』がザ グレブ、アヌシー、広島、オタワの四大国際アニメーション映画祭にノミネートし、ファントーシュ国際アニメーション映画祭ではBest filmを受賞。最新作『春のしくみ』がベネチア映画祭オリゾンティ部門で上映される。
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by matsuo-art | 2012-02-19 23:17 | 映画  

僕の好きな映画2/アンドレイ・タルコフスキー監督「ノスタルジア」と「サクリファイス」

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タルコフスキーの映画はほとんど観た。「僕の村は戦場だった」、「アンドレイ・ルブリョフ」、「惑星ソラリス」、「鏡」、「ストーカー」、そして「ノスタルジア」と「サクリファイス」。そればかりか、イタリア滞在中には「ノスタルジア」のラストで印象的に登場する、あの天井のない朽ちた教会堂を観にトスカーナの片田舎の村を訪れたこともある。

タルコフスキーの映画は一本の樹のようだ。主題となる幹から沢山のエピソードが枝葉に分かれる。しばしば、こんなエピソードが話の進行に何の関係があるのか?と思えるが、それらは遠目から観ると、枝葉のようにそよぎながら緩やかに関係し合い、樹のフォルムを形作っていることがわかる。
効果音やBGMでドラマを盛り上げることもないし、登場人物の動きは緩慢で、遠景を多用し、そのうえワンカットが異常に長く、エピソードが主題に対して予定調和的にまとめられてもいない。そうした意味では、タルコフスキーの映画ほどハリウッド流の映画から遠いものはない。

タルコフスキーの映画を観た後にいつも思うのは、その話の内容よりは、映画を支配する圧倒的な静寂と、水、風、霧、火、光、そして闇の印象だけが鮮烈に残っていることだ。もしかしたら、タルコフスキーの映画はそうした「自然現象がドラマツルギーによって構築されたもの」だと言えるかもしれない。
もうひとつ、タルコフスキーの映画にあらわれる草原。その何の変哲もない草原が、彼の映画の中では特別な場所となる、その不思議。
神に自らの家を捧げる燔祭の場所として(「サクリファイス」)、未知なる存在の支配する力のフィールドとして(「ストーカー」)、ソラリス上に仮構された追憶の場所として(「惑星ソラリス」)。風にそよぐ雑草、その一本一本がタルコフスキーの映画の中では特別な存在となる。

ところで、「ノスタルジア」と「サクリファイス」の両方に、現在の人間の文明の有様を憂い、それを何とか変革させたいと願う初老の人物が登場する。演じているのは、どちらも同じエルランド・ヨセフソンだ。(それぞれの映画で別人として演じられている。)この人物は、「ノスタルジア」ではローマのカンピドリオ広場のマルクス・アウレリウス騎馬像の上で、人間文明を警告する演説を行った上で自らを燔祭の犠牲として捧げる。また「サクリファイス」では、来るべき最終戦争を回避させてくれた神への感謝として自らの家を燔祭の犠牲として捧げる。
どちらも普通の人から見れば常軌を逸した、考えられない行為としてしか映らないことだ。だが、今回、この2つの映画を見直しながら、最近読んだ批評家の内田樹氏のエッセイを思い出していた。

『「存在しないもの」との折り合いのつけ方について』と題されたそのエッセイで、内田氏は能楽を例に挙げながら、以下の様に述べている(以下、再構成して引用)。

私たちは「存在しないもの」に囲繞されている。
「存在しないもの」は「存在するとは別の仕方で」 私たちに「触れてくる」。
「存在しないもの」は秩序の周縁に、理性の統御が弱まるところに出現する。そこをある種の「受信能力」を備えたものが通りかかると、それを手がかりにして、「それ」は境界線の向こうから「漏出」してくる。
「存在しないもの」たちと「交渉する」ためにはどのような能力が要るのか、どのような技法がありうるのか。

能におけるワキの多くは「旅の僧」である。
彼は秩序の周縁である土地に、日のくれる頃に、疲れきってたどり着く。
彼はそこに何らかの「メッセージ」をもたらすためにやってきたわけではない。
むしろ、何かを「聴く」ためにやってきたのである。
彼はその土地について断片的なことしか知らない。だから、その空白を埋める情報を土地のものに尋ねる。
そして、その話を聴いているうちに眠りに落ち、夢を見る。
これが「存在しないもの」との伝統的な「交渉」の仕方なのである。

(そのような能における「旅の僧」のような、所謂)「ゲートキーパー」は境界線を超えて「漏出」してくる「もの」たちを防ぎ止めることを主務としている。
ただし、「防ぎ止める」というのは「追い出す」ということではない。
そうではなくて、「お引き取り願う」ということである。
むりやり境界線の向こうに押し戻すのではなく、できることなら、自主的に「帰る」ように仕向けることである。
でも、「じゃあ、帰る」と言わせるためには、その前にひとしきり、彼らが「じたばた」するのに耐えなければならない。
デリケートな仕事である。

そして、その一場の劇が終わったとき、「それ」は立ち去り、私たちの世界と「存在しないもの」の世界のあいだの「壁」の穴は修復され、「ゲート」は閉じられる。
そのような仕事を私は「インターフェイスのメンテナンス」と呼んでいる。

それは積極的に何か目に見える「価値」や「意味」をもたらすわけではない。
「災厄が起こらなかった」というのが、彼らの仕事が順調に推移している証拠なのだが、「起こらなかった災厄」をカウントする計数能力が私たちにはない。
だから、彼らはふつう誰からも感謝されず、誰からも敬意を示されない。
かつて「遊行の民」と呼ばれた人々は、この社会的な責務を担っていた。
その「呪鎮」儀礼は古代から、もっぱら音楽と舞踊と詩歌の朗唱を通じて行われた。
だから、私たちはせいぜいこの芸能を享受したり、巧拙を論じたり、それについての美学を構築するような迂回的な作業を通じてしか、この働き人に報いる方法を知らないのである。

(以上、引用終わり。)

「ノスタルジア」と「サクリファイス」に登場するこの初老の人物は、内田氏の言う「ゲートキーパー」に重なって見えてしまったのだ。
彼は起ってしまった危機的状況を英雄的な行為によって解決したのではなく、危機的状況が起こらなかったことこそが彼の成し遂げたことなのだ。それゆえ彼の行為は普通の人からすれば常軌を逸した行為のようにしか見えない。しかし、「漏出」する「存在しないもの」とのコミュニケーションによって、映画の中では彼は確かに何事かを成し遂げたように見える。思えば、タルコフスキー映画の主人公の寡黙さと忍耐強さ(「ソラリス」然り、「ストーカー」然り、「ノスタルジア」と「サクリファイス」然り)は、「受信能力」に優れ、「存在しないもの」との交渉を忍耐強く行う使命を課せられたが故なのであろう。前述の「タルコフスキーの草原」の不思議さは、「存在しないもの」がその境界を越えて「漏出」してくるフィールドなのだと理解すれば、納得もできる。

(ただ、急いで付け加えなくてはならないのは、タルコフスキーはこうした「ゲートキーパー」の行為を一方では胡散臭いものとして捉える視点を放棄していない。「ノスタルジア」では、燃え上がる老人の背後に彼をサポートする黒幕のような奴がいるし、「サクリファイス」のラストの燃え上がる家を背後にしたあの長回しのシーンはまるでドタバタ喜劇のようだ。そのように描くことによってタルコフスキーは「ゲートキーパー」の行為を相対化しようとしたのではないか。)

タルコフスキー最後の映画となった「サクリファイス」では、全てを語り尽くしてしまおうとするタルコフスキーの焦燥のようなものが見える気がする。そして確かに、タルコフスキーの映画を特徴づけている全てのエレメントが「サクリファイス」の中に凝縮されているのを観る。
「サクリファイス」は、「存在しないもの」と対峙しながら、一本の見事な大樹として「この地上の一つの場所に」立ち尽くしている。(Y.O.)

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by matsuo-art | 2011-09-11 18:41 | 映画  

僕の好きな映画1/「ベルリン・天使の詩」ウ゛ィム・ウ゛ェンダース監督

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先日、図書館に行ってビデオライブラリ−をみていたら、僕の好きな映画が沢山収蔵されていたので、何本か借りてきて観直してみることにした。そのうちの一本が、この「ベルリン・天使の詩」です。

この映画は封切り当時、ロードショーで観た。1988年頃だと思う。当時この映画はあちこちで話題になっていて、そうした評判の良さを知ったことから映画館に足を運んだものと記憶している。観終わって、これは静かなものながら啓示に満ちた、とても深い感動をもたらす希有な映画だと感じた。今回観直してみて、やはりその時に感じた気持ちは変わらなかった。その上、物語や台詞やシーンの細部を非常に良く覚えていることに驚いた。

映画は、主演のブルーノ・ガンツの声による印象的な詩(ペーター・ハントケ)の朗読から始まる。そして映画の全編に渡ってこの詩が通奏低音のように響いている。

子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ
川は河になれ
水たまりは海になれと思った

子供は子供だった頃
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり
魂はひとつと思った

子供は子供だった頃
なにも考えず
癖もなにもなく
あぐらをかいたり とびはねたり
小さな頭に 大きなつむじ
カメラを向けても 知らぬ顔
・・・・・・・・・・・・・

東と西を分ける壁のあるベルリンの街で、たくさんの天使たちが活動している。彼らは歴史のはじめから存在し、人間たちの営みを観察し、人間たちの心の声に耳を澄まし、それを淡々と記録し続けている。彼らには時間はなく、感覚もない。彼らは状況に介入する術を持たない、いわば「形式的」で無力な存在なのだ。
自らの経験を持たない単一的な存在である天使が、どうして人間に憧れ、人間になりたいと思うのだろう。「偶発的なゆらぎ」としか言いようのないことだ。サーカスのブランコ乗りの女性(マリオン)に恋をしたことで「ゆらぎ」が生じたのか。「ゆらぎ」が生じたから恋をしてしまったのか。

一人の天使が人間になる。マリオンも夢の啓示によって自分の前に一人の男性が現れるだろうことを予感している。

そして、ベルリンの街のある場所で彼らは巡り会う。
その、必然のように巡り会い、その必然を当然のように受け入れるマリオンのモノローグが僕は好きだ。それは、形式的で傍観者的な存在から、自分の意思によって、身体を持って自らの歴史を作って行く存在となった「かつての天使」と響き合い、さらには、1〜2年後には壁が崩壊し歴史が動きだすであろうベルリンの状況を予感させてもいる・・・・。

天使の目から見たモノクロームのベルリン、子どもたちの天使との語らい、その暖かいまなざしと微笑み、瀕死の人物のモノローグと励ます天使、図書館に響く沢山の詩と物語に耳を傾ける天使たち、かつてのベルリンが失われてしまったこと、世界が黄昏の中にあることを嘆きながらも、来るべき平和の叙事詩のための語り部であり続けようと言葉を紡ぎ続ける老詩人・・・・。
これからも僕にとって、大切な映画であり続けるでしょう。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-09-08 13:39 | 映画  

「ハートロッカー」/「ベルリン・フィルと子どもたち」

先週は駅前のレンタルショップでDVDレンタルが100円だったので、たくさん借りてきて毎晩映画を観ていました。今回借りたのは

「ハリーポッターと謎のプリンス」
「ハリーポッターと死の秘宝パート1」(ハリーポッターは半分子どものために借りました。)
「ハートロッカー」(キャスリン・ビグロー監督。イラクで爆弾処理任務にあたるアメリカ兵の話。)
「ベルリン・フィルと子どもたち」(ベルリン・フィルとの「春の祭典」を踊るために集まった子どもたちの練習風景を描いたドキュメンタリー)
「Ray」(ソウルの巨人、レイ・チャールズの伝記。行きつけのカレー屋のマスターのお薦めにより。)
「ブラザーサン シスタームーン」(フランコ・ゼフィレッリ監督。聖フランチェスコの伝記。)

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「Ray」も良かったんですが、この中では「ハートロッカー」と「ベルリン・フィルと子どもたち」が断然お薦めです。

「ハートロッカー」は、何年か前のアカデミー賞で「アバター」を抑えて賞を総なめにした作品ですが、確かに良かったです。戦時下の市街地における爆弾の処理という、人間に極限状態を強いる任務を日々こなす中、任務に従事する登場人物たちに生じる、様々な心理的葛藤を描いた重い内容の映画なのですが、引き込まれるように観てしまうのが不思議です。脚本や演出、カメラワークなどが優れているからなのでしょう。イデオロギー的なことはともかく、今まさにこのような現実がある、ということを認識しておくためにも見るべき映画だと思いました。

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「ベルリン・フィルと子どもたち」は、ベルリン・フィルとの「春の祭典」(ストラヴィンスキー)を踊るために集まったベルリンに住む子どもたち(そのほとんどはダンスに関して全くの素人であり、様々な年齢、出身地によって構成されている)が練習を積んで行く中で自分自身を見つめなおし、そして公演を成功させるまでを描いたドキュメンタリーです。はじめは興味本位で集まった来た子どもたちが、初めて体験する真剣な練習に戸惑い、耐えられずにふざけたりだらけたりしてレッスン自体が崩壊しかねないところを、ダンスの指導者やサポートの先生が真摯に子どもたちの心と向き合って、物事に真剣に取り組むことの意義を諄々と説きながらも何とかレッスンを進めて行く姿が感動的です。
また、名実共に世界一のオーケストラであると目されるベルリン・フィルが、その立場に安住せず21世紀に開かれた新しいオーケストラのあり方を模索していたり、芸術監督/指揮者のサイモン・ラトルやダンスの指導者の「芸術は人間にとって必要不可欠なものだ」という基本的姿勢に基づいて行動する姿にも感銘を受けました。
レンタル100円だったのでたまたま借りてみた映画でしたが、大当たりでした。まだまだ知らない良い映画がいっぱいありますね。(Y.O.)
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by matsuo-art | 2011-07-31 13:11 | 映画  

「和田淳と世界のアニメーション」神戸アートビレッジセンター

当研究室出身のアニメーション作家、和田淳氏の上映会が、昨日6月18日(土)より神戸アートビレッジセンターで始まりました。

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和田淳と世界のアニメーション
神戸アートビレッジセンター
日時:2011/6/18(土)〜 24(金)

日本各地を巡回して地元神戸に帰って来た、という感じですね。
和田氏についてはこのブログのこちらこちらでも以前、紹介しました。

トークショーとかあるのかなあ、とインフォメーションを見てみたら、やはり初日の昨日にあったみたいですね。すでに終わってしまいました。

ただ、本日の日曜日(19日)は「CALF in 姫路」として、和田氏も含めたCALFのメンバーの上映会やトークショーがあるということです!!海外の映画祭などで高い評価を受ける日本のアニメーションを一同に見る事のできる機会、こちらも是非、お薦めです。
トーチカのワークショップもあるようです。トーチカさんにはうちの子供も昔、C.A.P.でワークショップに参加させていただきました(まだトーチカさんがメジャーになる前ですね)。(n.m.)

和田淳 略歴
1980年兵庫県生。大阪教育大学、イメージフォーラム付属映像研究所、東京藝術大学大学院で映像を学ぶ。2002年頃から 独学でアニメーションを制作しはじめ、「間」と「気持ちいい動き」を大きなテーマに制作を続けている。『鼻の日』(05)がノーウィッチ国際アニメーショ ン映画祭短編部門でグランプリ、『そういう眼鏡』(07)がリオ・デ・ジャネイロ国際短編映画祭で最優秀若手審査員賞を受賞。新作『わからないブタ』がザ グレブ、アヌシー、広島、オタワの四大国際アニメーション映画祭にノミネートし、ファントーシュ国際アニメーション映画祭ではBest filmを受賞。最新作『春のしくみ』がベネチア映画祭オリゾンティ部門で上映される。
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by matsuo-art | 2011-06-19 01:13 | 映画  

元町映画館のゴダール映画祭2011

当研究室から歩いて5分の元町映画館でゴダールの「フォーエバー・モーツアルト」を観てきました。上映後には浅田彰氏(京都造形芸術大学大学院長)と市田良彦氏(神戸大学国際文化学部教授)の対談「シネフィルでない人のためのゴダール入門」もあり、濃密な空間を体験してきました。

お二人のお話は本当に面白くて、映画1本観て、これで1500円は安すぎる。私はたまたま11時に整理券を取りにいけたので12番目に入場できましたが、開演時間前に映画館に行くと大きな人だかり。満員御礼だったようです。
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対談では始めに浅田氏が、パレスチナでの挫折による「ヒア&ゼア」から現在に至るまでのゴダールについて解説。映画とその外側がからんで連動するゴダールの立ち位置を簡潔に解きほぐしながら"抑えがたい速度で疾走していく”氏の語りに感服です。「フォーエバー・モーツアルト」を観ていない!?という市田氏は、最新作の「ソシアリスム」(私も2月に観ました)や「JLG/自画像」のヨーロッパ主義的傾向とナルシシズムを批判的に語りつつも、フランク・ザッパ的な切り貼りマニアとしてのゴダールの魅力に言及。その切り貼りの牙城である自宅を最近売り払ったという80歳を過ぎたゴダールに、新たな期待を寄せて終了しました。

「ハリウッドのオーディオビジュアルな帝国主義に対するヨーロッパ主義」「ホロコーストを語れなかった映画の原罪、それを映画の分身でできた私(ゴダール)の身体が一身に背負う」「映画の中で完結しないゆえに世界と否応なくショートして繋がってしまうゴダール」などいろいろな側面から語られましたが、中でも「スピルバーグ(またはタランティーノ)に嫉妬しているゴダール」という側面が一番腑に落ちて面白かったところです。

安心したのは、最近のゴダールの映画は一度観ただけでは筋も何もわかるようには撮っていないので、浅田氏でも5回は観ないとわからない、とおっしゃっていたこと。1996年公開当時、「フォーエバー・モーツアルト」を蓮實重彦氏と観た時は、ここはこうだったよね、と単純に2人で筋だけの確認をして、もう一回観た、とおっしゃっていました(私自身、ゴダールを好きになったのは80年代に「パッション」を映画館で3回観てからです)。文学、音楽、絵画、歴史などの膨大な引用についても「実はゴダールはヨーロッパの教養と言うほどにはちゃんと読み込んではいない」としてゴダールの感覚的な引用にも触れていたので、「新ドイツ零年」を観てその引用についていけない、とゴダールから離れていた私も、この機会にまたいくつか観てみようかと思いました。

元町映画館のゴダール映画祭は15日(金)まで開催しています。今回の9作品のうち初めてゴダールを体験する人にお薦めなのは、「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「右側に気をつけろ」あたりが(眠くならずに)よいのではないでしょうか。(n.m.)
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by matsuo-art | 2011-04-10 22:03 | 映画  

「和田淳作品集2002-2010」

和田淳氏のアニメーション作品集「和田淳作品集2002-2010」がCALFのWebショップで販売開始していたので、早速、購入させてもらいました。
わがままを言ってサインをお願いしたら、特別に一筆描いてくれました。
和田君、どうもありがとう。
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ところで、このDVDに入っている最新作「春のしくみ」には亀と(へんな)カエルが出てくるのですが、亀も、カエルも、うちで飼っています。

カエルはもともと娘が小学生の時に飼いだして、亀は今年になって息子が飼いだしました。カエルはたくさんいた時期もありましたが、今は、あまがえるのマリーと、殿さまがえるのトノの2匹だけです。
マリーはオタマジャクシの時から飼っていて、もうかれこれ6年になります。トノはそろそろ冬眠です。アカハライモリも4匹いますが、今はすべて息子が世話しています。

「春のしくみ」は”春のうずうず感を表現しました”と解説にありますが、独特の”おかしさ”を持った作品です。息子にはまだ観せてないですが、観たら喜ぶだろうなあ。(n.m.)
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by matsuo-art | 2010-12-14 20:21 | 映画