海北友松 展 京都国立博物館
海北友松(1533~1615)は狩野永徳、長谷川等伯と並び称される桃山画壇の巨匠として、私が若い頃には日本美術の画集に必ずその作品が掲載されていた絵師。ただ最近は若冲や長沢芦雪などが注目されるようになったのとは反対に存在感が弱くなっていて、このまま歴史のスポットライトからはずれていくのかな、とも思っていた。一時期歴史の中に存在を埋没させていた若冲が浮上したのと入れ替わるように歴史から消えていく?と余計な心配をしていた折からのこの展覧会。私自身、その名前を知っていても実作に触れたことはほとんどなかったので、良い機会だと思い行ってきた(5/21(日)まで、京都国立博物館)。
4月29日、土曜の祝日に行ったので混んでいるかと心配したが、観客は少なくまばらで鑑賞条件としては非常に良好。金・土曜は夜間観覧が夜8時まで行われているので6時過ぎに入館して8時までじっくり鑑賞することができた。
その生涯についても知らなかったのだが、武家出身の友松が絵師として頭角を現すのはなんと60才になってから。83才まで生きたその晩年に巨大障屛画も含めた主要作品を描いたというのには驚いた。狩野派に師事し、2代目狩野元信(1477?~1559)やその孫、狩野永徳(1543~1590)に直接学んだと言われており(元信が他界した年に友松27才)、狩野派から独立したのは1590年に永徳が没した直後という(友松57才)。永徳と長谷川等伯(1539~1610)の2人は利権をめぐって対立していたと伝え聞く中、友松はどういう位置にいたのかと以前から疑問だったのだが、少なくとも友松と永徳とは対立のしようがなかったのだと納得。
友松は年に一度の法要のための金地屏風三双を、狩野山楽(1559~1635、永徳の養子)とともに妙心寺に納めているが、そういうところを見るとその後も狩野派とはうまくつきあっていったのかな、と思う。ちなみに永徳は友松より10才若いが25年も早く没している。等伯は6才若いが5年先に没している。山楽は26才若く、友松の没後20年生きた。
海北友松 建仁寺大方丈障壁画「雲龍図」
得意な画題であったという龍の絵はどれも興味深く、特に建仁寺大方丈障壁画の「雲龍図」(1599年)は素晴らしかった。巨大な横長の画面に円弧の渦と2頭の巨大な龍が絡んだ構図がよく練り上げられ、雲で見え隠れする龍を墨の濃淡で表現し前後感を与えている。大胆に画面を大きく使っているが勢いにまかせて描くのではなく、画面の動きを損なわないよう注意深く形態を描いている。こうした巨大な龍の絵としてはひとつの完成形だと思ったし、そもそもこうした巨大な龍の絵のスタイルを築いたのはこの人ではないのか、とも思った。
その表現は牧谿(13世紀、南宋時代)の影響を受けていると指摘されているが、確かに暗い墨の中から浮かび上がる龍が醸し出すその雰囲気は「禅展」(2016年、京都国立博物館)で観た牧谿の「龍虎図」の龍と似ている。牧谿の龍は、経年劣化もあるのだろうが全体に暗い画面で、その中央に霊感を伴う龍の頭部が浮かび上がる様子が魅力的だった。ただし、牧谿の絵は縦長画面の掛け軸で、巨大な龍ではない。
牧谿 「龍虎図」より部分
江戸中期になると曾我蕭白(1730~1781)がボストン美術館にある、あの超巨大な「雲龍図」(1763年)を描いたが、今思えばあれは、海北友松の龍を思いっきり大胆にあっけらかんと巨大化しました、という感じの龍だ。墨の暗さ、立て掛けて流れた墨などに似た要素を感じる。たとえば俵屋宗達(1570頃?~1640頃?)も大きな雲龍図を描いたが、薄墨のたらし込みによる明るい白さの中に霊獣の神聖さを感じさせる作品はまた別の趣きだ。フリア美術館にあって門外不出、一度は眼にしたいと思っている作品だが、宗達最晩年作と言われていて、友松の龍より時代は少し後になる。長沢蘆雪の無量寺にある大きな「龍図襖」も江戸中期と時代はさらに後で、さばさばと筆を走らせた南画のような作風だ。
俵屋宗達 「雲龍図屏風」右隻
「ボストン美術館展」(2013年、京都国立博物館)で観た長谷川等伯の「龍虎図屏風」の龍も大きくて同時代の作品だが、こちらは1606年作なので友松の建仁寺大方丈障壁画より7年ほど後になる。ボストン美術館展では古い年代順に作品が展示されていたが、この等伯の部屋に入り大きな龍図を目にして、近世の到来を実感した。広く余白を取り、大きな雲(波?)が柔らかなかたちをした大和絵風の龍図である。そもそもこの時代に霊獣を大画面に描くということを始めたのは狩野永徳だと思うが、教科書でよく目にしていた永徳の「唐獅子図屏風」の実物を「狩野永徳展」(2007年、京都国立博物館)で観たときに、”大きな生き物を大画面から浮き立つように描く”というコンセプトで80年代に作品を描いていた者としては、我々がやろうしていたことをすでに400年前の永徳がしていたという事実に対面して呆然とした。永徳や等伯の時代に現れた近世の絵画は現代と地続きだ、と私には思えた(永徳は安土城にも龍の絵を描いたようだが現存していない)。
長谷川等伯 「龍虎図」より右隻の龍図
さて、雲龍図とともに今回注目の作品は、60年ぶりにアメリカより里帰りした「月下渓流図屏風」。今までに画集などでも目にしたことのない作品で、先に観たNHK日曜美術館では”奇跡の名画”と紹介されていた。さすがにそれは大げさすぎるのでは、と思っていたが、実物を観て、なるほどこれは素晴らしい絵だ、と納得した。
大和絵風の柔らかい形象で川の流れを描いている。左隻のゆるやかな流れは等伯の龍虎図に描かれた雲(波?)のようにおおらかな曲線を描いているが、右隻に流れる雪解け水の流れは若干速くて、岩と岩が狭い隙間を挟み緊張感を持って接している。松、梅、土筆、蒲公英などの草木はどれも画面の隅であったり小さくあったりして、控えめに存在している。満月と思われる月も雲か霧に隠れて半分も見えない。大きな余白が空間を支配していて、環境音楽のような絵だと思った。等伯の松林図屏風のような目立った存在ではないが、同じ時期に大陸の情景ではなく和の情景を水墨で描いた作品として注目されてよいだろう。
購入した絵はがき。上から 雲龍図2枚、月下渓流図屏風右隻、同左隻。
鑑賞後に絵ハガキを選び図録を買おうとレジに行くと、なんと図録の表紙が2種類あって、一つは雲龍図、一つは月下渓流図となっている。中身は同じだというが一瞬迷ってしまった。でも月下渓流図の表紙は”京博限定”という言葉につられてそちらを購入(巡回しない企画なのに京博以外のどこで売っているんだろう?)。龍の表紙のほうが迫力があってよかったかも、と若干悔やみつつ帰宅したが、家で「長谷川等伯展」(2010年、京都国立博物館)の図録を取り出してみて、どちらも薄墨の絵に銀のタイトル文字で瓜二つなのに気付いた。等伯展の表紙画像は松林図。これは意図されたものだな、と後付を見ると同じデザイナーさんだった。双子のような図録を並べて、こちらの表紙にして良かったな、と思った。(n.m.)
by matsuo-art | 2017-05-11 03:46 | 展覧会