「中原浩大 Drawings 1986-2012 コーちゃんは、ゴギガ?」伊丹市立美術館

伊丹市立美術館で「中原浩大 Drawings 1986-2012 コーちゃんは、ゴギガ?」が11月4日(日)まで開催されています。
私は対談「石原友明(美術家)×中原浩大」があった10月21日(日)に行ってきました。

対談では、石原さんによる「観客1か、0か、」の話が示唆的でした。
それは作品を制作する時に、観客をどう設定するか、という話で、石原さんと中原浩大の間ではこれまでにも交わされた話であるらしい。

石原さんは、観客を一人、設定する。それは自分自身。
中原浩大は、観客はゼロだと言う。観客を意識しないで作り、描く。

私はと言えば、もちろん観客1の側です。自身の作品の、最初の鑑賞者として自分が存在するし、そこにはすでに内面化された他者の視線もあるでしょう。観客がゼロだというのは、自意識が発生する前の幼児のように描くということです。たとえば大学まで行って高等教育を受けたものがそれを行うことは難しい。ある短時間にそのような状態になっても、観客としてのもう一人の私はすぐにやってくる。
しかし、中原浩大のドローイングは、紙にクレヨンで、5分くらいで描く。観客が介入することを拒む方法。

対談時にはまだ出来上がっていなかった同展覧会の記録集(カタログ)が今日届きました。「2つのステートメント、10年の記憶の捏造」という作家の文章が載っています。そこで彼は、ドローイングの場所が ”他者や外部からは不可触で特別な場所「温床」であり、唯一の住人である私はそこにいる間ずっとひとりで干渉を受けない「お絵描きコーちゃん」でありつづける” ことを宣言した、1990年のヒルサイドギャラリー個展におけるステートメントについて言及しています。またそれが、その頃から作品全体が変貌していったこととは関係ない、と述べているように、「お絵描きコーちゃん」のフィールドは、中原浩大の中で以前から存在しているようです。

一方で、もう一つの2008年のステートメントにあるように ”当時1歳だった私の娘” という珍客がそこに訪れるようになったこと、また、今回の展示のためにドローイングを整理する過程で、数年前に火事で作品収蔵倉庫が焼けたこととは関係なく、”いつもの110㎝×80㎝ぐらいのサイズで、1996年から2004年頃に描いたと思われるもの” がない事実を発見し、ドローイングをずっと続けていたと思い込んでいた自分に対し ”ほぼ10年の記憶を捏造してきた” と書いています。対談でも10年間ほとんど描いていなかったことがショックだった、と語っていますが、これは「お絵描きコーちゃん」という自己規定が知らぬ間に変容しつつある、というところなのでしょうか。

”外部、他者との接触によって生じる、より具体的で触知的ともいうべき刺激や反応の実感を希求すること” として語られた90年頃からの作品全体の変貌と、美術および作品発表からの乖離については、対談における ”ツバメ” 作品への言及ではっきりと提示されました。すなわち、ツバメの巣帰りという圧倒的な状況を体験していることが主で、それを写真にして美術として提示するのは従である、と。中原浩大にとっては「美術の外部としてのツバメ」ではなくて「ツバメという体験の外部としての美術」だということです。

ところで美術の側からの問題点(謎)は、なぜ彼の中で美術と体験の主従が逆転したのか、ということです。あるいは、美術は彼の中で、もう特権的な体験となり得ないのか、ということ。

端的に言って、とても魅力的な80年代〜90年代中頃までの彼のドローイングは、自己目的化しても同じようには描けないだろうし、だからといって図式的な身体性を持ち込んで描けるものではない。また、すべての幼児の絵が魅力的であるわけではないように、審美的な観点から言えば、自意識が介入しなければすべてよし、という訳ではない。

「海の絵」は、ドローイングとしてではなく「絵」を(唯一?)意識して描いた、と言う。ちなみに "松”と "アトム”はインスタレーションと言うことだが、私の意見では、"松”は絵画だと思う。なぜなら "松”には絵画空間があるから(ただし、2008年にギャラリー16で再展示したときには、あまりに引きがなかったせいか、Rギャラリーで最初に展示した時のような絵画空間を感じなかった)。”アトム”には絵画空間はないので、当時私は ”アトム”には恐れを抱かなかった。

「海の絵」は、海に潜ったときの体験を描いた、という動機において、当時私はおののいた。あのような抽象的な絵を、そのような純粋な動機によって描いた、ということにおいて。ただ、あの作品は、構図に中心性を残してしまっていることなど、個人的には若干不満なのだ。つまり、中原浩大には、もっと良い絵を描き続けることができると私は思っている。美術と体験との幸福な出会いを求めるならば。
それがドローイングと呼ばれるか、絵画と呼ばれるかはあまり関係がない。そこに絵画空間があれば、それは「絵」だと私は思っている。(n.m.)
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by matsuo-art | 2012-10-31 22:20 | 展覧会  

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